読み物

香里

Sorry Japanese only

『伯爵夫人・雪子』

 

 南郷伯爵邸の応接室にメイドが入っていく。応接室は重厚な造りの洋間で、伯爵夫人、雪子はそこで窓の外を見ていた。メイドが言う。

「奥様、お客さまです」

雪子は目だけをメイドの方に向け、上品な、弱々しい声で言った。

「どなた?あまりお会いしたくないわ…」

「春子さまです」

春子は、雪子の女学校時代からの親友である。

「ああ、春子さんならいいわ。通して頂戴」

「かしこまりました」

春子は子爵の娘で、まだ独身である。メイドに部屋に案内された春子は、ひと目雪子を見るなり、

「雪子さん、どうなさったの!?それ…」

と驚いたように叫んだ。いつもは上品に和服を着こなしている雪子が、黒いドレスを着ているだけでも驚きだが、もちろんそんなことで驚いた訳ではない。

 雪子は車椅子に乗っていたのだ。それだけではない。両足はつま先から石膏のギプスで固められ、膝も曲がらない状態である、右腕にもギプスがはめられ、三角巾で肩から吊られている。左腕と頭には分厚く包帯が巻かれ、首にはコルセット。ギプスや包帯の白さが、雪子の黒いドレスに美しいほどよく映えている。

 雪子はぐったりと車椅子によりかかり、春子を見て弱々しく微笑む。

「ああ、春子さん、御免なさい。こんな不躾な姿をお見せしてしまって…恥ずかしいわ」

春子はショックを隠して、雪子の前の椅子に腰掛けた。

「わたくしには遠慮なさらなくて結構よ。でも、そんな大怪我をされているなんて、知らなかったわ」

メイドが紅茶を運んできた。雪子は笑う。

「紅茶茶碗も持てないのよ、この手では…」

「一体どうなさったの、そんなひどい怪我」

「ええ、実は二週間前、自動車の事故に遭ってしまったの。乗っていた車が横転してしまって、わたくしは車外に投げ出されたのよ。それで全身を強く打って、骨折してしまったの」

「まあ、なんて事…お辛かったでしょう。知らなかったわ」

「避暑地での事故だったから、こちらの新聞には載らなかったようね。入院していたのだけれど、やはり東京がいいわ。無理を言って、昨日こちらに帰って来たのよ」

「車で帰っていらしたの?」

「ええ、砂利道で振動するたびに、体中が痛くて痛くて…ずっと悲鳴をあげていたわ」

春子は顔をしかめた。

「まあ…ひどい事故だったのね。他に怪我人は出なかったの」

「運転手は軽い怪我ですんだの。主人の伯爵が怒って、あの運転手はくびにすると言っているけれど、可哀想だわ」

「そんな、自分の妻がこれほどの怪我を負わされれば、当然だわ。骨を折られたのでしょう?」

「ええ、両足と右腕をひどく折ってしまったの…」

雪子は添え木をし、包帯を巻いた左腕で、ギプスで固めた右腕を、三角巾の上からそっとさする。

「この石膏のギプスはとても重くて、自由がきかないわ」

「大事になさらなくてはいけないわ。頭の怪我は心配ではなくて?」

「検査の結果では、心配ないのよ。ただ、何針か額を縫ったので、跡が残るのではないかと、それが心配なのよ」

雪子は社交界でも有名な美女だ。その白い肌に傷跡が残るなど、ありえないことだった。ほっそりとした手足がひどく折れ、石膏のギプスが厚く巻かれている様子など、とても正視していられないほど痛々しい。

「首や腕は、どんな具合なの?」

「ええ、捻挫というのかしら、折れてはいないのだけれど、筋をちがえてしまったようなの」

「しばらくは動けないのね」

「ええ、そうなの。パーティにも出られないし、つまらないわ」

「たまに遊びに来るわ。気晴らしになるでしょう」

「ありがとう、春子さん」

雪子は微笑んだ。

「けれど、こんな怪我をしてしまって、実は、一生車椅子かもしれないと言われているのよ」

「ええっ!?一生ですって?なんてこと…」

「両足とも、粉砕骨折といって、骨がところどころ粉々になっているようなの。膝の骨も割れているということなのよ。いいお医者さまを紹介してもらったのだけれど、少なくともあと一年は、このギプスは取れないと言われているのよ…」

雪子は涙ぐんだ。春子はすっかり同情し、ギプスと包帯で、まるでミイラのようになってしまった雪子の体をそっと撫でた。

「心配することはないわ、雪子さん。医学は進歩しているのだもの。きっと良くなるわ」

「そうかしら…」

「そうよ。そうだわ、今度三越にでもお買い物に行きましょう。わたくしが車椅子を押してあげるわ。家にこもっているから、嫌なことばかりを考えるのよ」

「そうかもしれないわね。ぜひお願いするわ」

 

 一週間後、三越の前に自動車が止まった。降りて来たのは、春子である。運転手が車椅子を用意し、後部座席を開けた。そこには、ギプスに包まれた雪子が乗っている。

「さ、大丈夫?雪子さん」

「春子さん、わたくしやっぱり恥ずかしいわ。こんな姿…」

「何を言っていらっしゃるの。大丈夫よ。さ、降りて」

運転手と春子に両脇を支えられて、雪子は車を降りた。その姿を見て、通りを歩く人々がぎょっとしたように雪子を見る。雪子は痛みと恥ずかしさと闘いながら、車椅子に座った。春子がそれを押す。

「さ、大丈夫?」

「ええ、でも、恥ずかしい…」

三越に入ると、早速店員が寄って来た。

「これは、奥様。お引き立てありがとうございます。女店員に世話をさせますので、お買い物をお楽しみください」

「まあ、ありがとうございます」

 車椅子に乗った雪子と、それに付き添う春子は買い物を楽しんだ。雪子は首も動かせないし、手に取ってものを見ることもできない。女店員が、帽子や洋服を、説明をしたり取って渡したりした。途中、何人も知り合いに会う。

「まあ、南郷伯爵夫人!その怪我、いったいどうなさったの」

「お怪我をされたとは聞いていましたけど、まさかこんなにひどいなんて…」

「どうかお大事にね」

そう言ったあとで、ひそひそとした噂の声も聞こえる。

「あんな大怪我で出歩いて、どういうつもりかしら」

「はしたないわ、あんな姿」

「あそこまでして皆さんの気を引きたいのかしら、嫌な人」

貞淑な雪子には耐えられない噂話だったが、春子は

「あんな方々、気にすることありませんわよ。雪子さんが美しいものだから、嫉妬しているのよ」

と平気なふうである。雪子も元気づけられて、たくさんの買い物をした。

 屋敷に帰ると、雪子の夫である、南郷利彦伯爵が出迎えた。

「やあ、雪子」

「あなた、帰っていらしたの」

「仕事が早く終わったのでね。久し振りの外出はどうだった?体は痛まなかったかい?」

「ええ、とても楽しかったわ」

「それは良かったね。少し休んだらどうだろう」

「ええ、そうするわ。それじゃ、春子さん、どうもありがとう。またいらしてね」

車椅子をメイドに押されて、雪子は寝室へと引き上げていった。利彦と春子は二人で応接室に入り、お茶を飲んだ。

「春子さん、今日はありがとう」

「いいんですのよ、こんなことくらい。それより、雪子さんの足がもう治らないかもしれないなんて、本当なのですか」

「ええ、医者にはもう見放されています…。雪子には、ショックを受けるといけないと思って伝えていませんが」

「雪子さん、お可哀想に。あんなにお若くて、美しくていらっしゃるのに」

「全く、困ったことになりましたよ」

利彦は溜息をついた。春子は、え?と聞き返した。

「困ったことって、どういうことですの?」

「正直、雪子は美しくて貞淑な、極上のアクセサリーのようなものです。ああいう美しい妻がいれば、実業家の僕にとっては、非常に利用価値がありますからね。しかし、あんな大怪我をしたあとなら、話は別だ。顔は美しくても足を悪くして車椅子なんて、パーティの場を盛り下げるだけの存在だな。もう僕は雪子を連れて歩く気はしませんね」

「まあ、利彦さん、冷たい方でいらっしゃるのね」

「春子さんは、ご結婚なさらないのですか」

「ええ、わたくしは、気に入った縁談がなくて」

「もしよかったら、この僕と結婚しませんか」

春子の目が、きらりと光った。

「何を言っていらっしゃるの。あなたには雪子さんという妻がいらっしゃるのよ」

「あんなミイラみたいにギプスだらけの女、もう僕は魅力を感じないな。春子さんだったら、雪子よりも美しいアクセサリーになりますよ。僕のことがお嫌いですか」

「そんな…」

利彦は親の遺産を受け継ぎ、事業にも成功した、非常な金持ちだ。家柄もいい。春子にとっては非常に魅力的な男性だった。

「でも、雪子さんはどうなさるつもり」

「あいつは、どこかに幽閉するんです。どうせ体の自由がきかない身だ。あの怪我がもとで死んだことにしましょう。そうだ、いっそここで怪我の治療を打ち切るんです。そうすればあいつは、あのギプスだらけの体のままで一生をひっそりと送ることになる。妻を失った傷心の僕を、雪子の友人であるあなたが慰め、やがてそれが愛に発展する…どうです?」

「素敵だわ」

「それじゃあ、早速計画を進めましょう」

 

 次の日、利彦は雪子に言った。

「実は、いい病院を見つけたんだ。君の足を元通りに治してくれるという医者がいる」

「ええ?本当なの?あなた」

「本当だよ。そこに入院したらどうだろう」

「ええ、すぐに行きたいわ。わたくし、もうこのギプスにうんざりしているの。ああ、早く自分の足で歩きたいわ」

「しかし、少し遠いんだ。信州の方にあるのだが」

雪子は迷った。

「それは遠いわね…わたくし、東京にいたいの」

「しかし、手術が成功すれば、すぐにでも戻って来られるんだよ。このまま一生車椅子でいるのと、数カ月信州で我慢するのと、どちらがいいかはわかるだろう?」

雪子は渋々、頷いた。

「わかりましたわ。わたくし、信州に行きます」

「そうか。それでは早速、手配しよう」

「ええ」

その日の午後のうちに、雪子は信州に発つことになった。

「さあ、雪子、病院からの迎えが来たよ」

「あなた、わたくし、何だかこわいわ」

「大丈夫だよ。君の怪我が治る、チャンスなんだから」

春子も見送りにやって来て、白々しく言う。

「雪子さん、信州で手術なさるのですってね。頑張って」

「ありがとう、春子さん」

春子の手を取りながら涙ぐむ雪子を、春子は内心笑いながら見ていた。

「それじゃあね」

雪子をのせた車は、出発した。

 

 数時間後。

 雪子は目を開いた。いつの間にか、眠っていたらしい。窓の外に目をやり、雪子は驚いて運転手に言った。

「どうしてこんな、山の中を走っているの?」

運転手は無表情で答えた。

「病院は治療に専念できるよう、山の中に建っているのです」

「こわいわ。少し戻ってくださらない?今日はホテルで一泊したいの」

「それはできません。すぐに病院に到着しますから」

「でも…」

「それより、これから道が悪くなります。揺れますからね」

「待って、わたくしは怪我人なのよ?静かに運転するようにして頂戴」

雪子の言葉に返事をせず、運転手は急にハンドルを切った。がくん!と車が揺れ、雪子の体が上下し、ギプスの両足が座席に叩き付けられる。鋭い痛みが足を貫き、

「あうっ!」

雪子は思わず叫んだ。

「痛いわ!もう少し静かに運転して頂戴!聞いてるの!?」

しかし道はどんどん悪くなっていく。雪子の体は上下左右に揺られ、シートにごんごんとぶつかった。

「あうっ!ぐうっ!ちょっと…!止まって!止まって頂戴…!うっ…ううっ…あぅうう…!」

雪子の骨折した手足が、容赦なくぶつかり、跳ねる。捻挫した首ががくがくと振られる。雪子は泣きながら、

「やめて頂戴!お願い、やめて…!!痛いのよ…!!あうぅぅ…ぐあああ…!!」

と懇願し、呻いた。しかし車は止まらない。痛みに悶絶しながら、雪子は気絶した。

 

 気が付くと、雪子はベッドに寝かせられていた。ギプスを巻いた腕や足が、ずきずきと痛む。雪子は叫んだ。

「誰か!誰かいませんの!?」

返事はない。起き上がろうとして、雪子は驚いた。ベッドに、バンドで縛り付けられていたのだ。雪子はわめいた。

「どういうことですの!こんなことをして…わたくしは南郷伯爵夫人よ!このような無礼は、許さなくてよ!!」

しかし、その声は狭い部屋にむなしく響くばかりである。雪子は力を入れ、無理矢理起き上がろうとした。しかしそのたびに痛みが全身を走り、動くことができない。さっき車で揺られたせいで、痛みが以前よりも増していた。雪子の意識が朦朧としてくる。

「痛み止…痛み止を頂戴!誰か!お願い、誰か来て!助けて!助けてえええ…!」

雪子の声は、山の中に空しく響く。

 

 東京の葬儀場では、南郷伯爵夫人・雪子の葬儀が盛大に行われていた。

「お可哀想に…あんなにお若くて、お美しい方でしたのに…」

「事故で大怪我をされて、一時期は回復なさったように見えたとか…」

「わたくし、三越でお買い物されているところを見ましてよ。ギプスや包帯を体中になさっておりましたけれど、お元気の様子でしたわ」

「何でも、急に病状がお変わりになられたんですって」

「足をひどく骨折なさっていたでしょう?黴菌が入って、それが原因でお亡くなりになられたとか聞きましたわ」

「伯爵も、お気の毒だわ」

「あの、仲のおよろしかった春子さま?あの方もそれはお泣きになられて…見ていられませんでしたわ」

「なんでも、あのようなみっともない姿を人には見せたくないと、雪子さまのご遺言だったとかで、棺の中は誰にもお見せにならないんですって」

「本当に、悲劇ですわね…」

「ええ、本当に…」