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Tom

Sorry Japanese only

ブレイブ.フォー.ペイン

 

第一部

 

<第1章、大月電気工業(株)陸上部トレーナー室>

 

”いよいよ明日だな、、”

空調の行き届いたトレーナ室、ベッドに横たわる陽子のしなやかな肢体を

入念にマッサージしながら、トレーナー兼コーチである浜崎は、これまでの

長い合宿の経過を回想していた。

 

零細企業である大月電気の陸上部顧問として、はや20年の任期を勤めてきた、

現在部員は2名、明日の実業団陸上大会、女子ハードルと400メートルで決勝を

迎えるこの田辺陽子ともう一人のルーキー、安田である。

 

陽子は今年23才、アスリートとしてはもう若くない、女王の名を馳せてきた

彼女も近年若手の台頭に押され、今大会を最後に引退を考えていた。

 

”コーチ、私、明日はきっと自分の走りができるような気がします。”

”右のかかとの具合もかなりいいし...なにより、川里化学には決して負けられませんもの。”

バスタオルを肩にかけながら、陽子は浜崎を見上げた。

わずかに上気したその肢体は見事に鍛え上げられたトップアスリートのそれであった。

 

”ああ、不安はない、ひとつもな...いいか田辺、合宿で調整したあの

ストライドを決してわすれるな!”部屋をでる田辺を見送りながら浜崎は

最後のアドバイスをした。彼女の調整に何一つ不安はないはずだった、わずかに

感じた右大腿のこわばりを除いては....。

 

<第2章、肉離れ:決勝当日、雲雀が丘競技場>

 

今大会の最大の焦点は、女王田辺と新進気鋭の川里化学の井上晴美との

一騎討ちであった、観衆の関心はその一点だけに集中していた。

井上は19才、まさに伸び盛りでこれまでの各大会で着実に力をつけてきていた。

一方、陽子も女王の名にふさわしい成績を維持していたが、やはり加齢にともない

故障も増えここ数年は右かかとの痛みのため、本来の走りを出来ずにいたのだった。

 

女子ハードル決勝、いよいよ意地をかけた戦いのときだ。

スタートラインに各選手が一斉に並ぶ、陽子は独自のストライドを何度もイメージ

し直していた。スタート!!早くも例の二人が頭二つ程抜き出ている、、、

予想どうりの展開にもかかわらず観衆は大いに湧いた。一つ二つハードルを越えていく、

まさに陽子のイメージ通りだった。わずかにおくれて井上が追撃する、、、。

”いける、いける、、、、”ある種の余裕すら陽子は感じ初めていた、井上との差は

変わらない、、、、。着地時のかかとの痛みも消えうせていた、、、陽子の勝利を誰もが

確信していた。一つまた一つ勝利へのハードルを越えていく、もう少しだ、、、

しなやかに着地の衝撃をかわし次のハードルへと、研ぎ澄まされた筋肉が躍動する、、、そのとき

陽子の肉体を異変が貫いた!!けり出した右大腿に焼けるような衝撃を感じた陽子。

 

”あういっつう!ああ!!”まるで焼けバシを押し付けられたようなするどい痛みが

彼女の右大腿を襲った。苦痛に顔面を歪める陽子、その異変に浜崎をはじめ多くの観衆が

気付いた!井上は陽子の異変に気付きながらもついに横一直線に並ぶ。

 

”田辺!!どうしたあ!!”浜崎の叫びはもはや彼女の耳には届かなかった。

 

右大腿の痛みをこらえながら、井上と壮絶なデットヒートを演じる陽子、少しずつ少しずつ井上がリードし始める、、、、

”ああ、もう少しストライドをひろげなきゃ!!ああっつ!”

さらに加速するべく陽子は痛む右足を限界まで引き伸ばす、最大限に伸長した筋繊維が

プツッツと音をたてて断裂していく、、、、悲壮な表情で最後のハードルを迎える陽子。

 

ブチッツ!ついに陽子の右大腿は断末魔をあげた!壮絶な痛みに気を失いかける陽子、

最後のハードルがもうスピードで迫ってくる!

 

観衆の悲鳴が響く!!陽子は最後のハードルを越えられずその上に上体をたたきつけるように転倒したのであった。

 

浜崎、救護員が引きつった表情で駆けつける、陽子にもはや意識はなかった。大腿にコールドスプレーをあて、すぐさまアイスバッグと弾性包帯によるアイシングが手際よく施される、”どうやら、肉離れだ、打撲のほうはどうだ?”浜崎はスタッフに確認する。”頭部は大丈夫です!ああ、こ、これは....右の肋骨を痛めているようです!”

ふと、陽子の、まぶたが開く、意識がもどったのだ。とたんに”くくう、はああああ、うー!!”泣き叫ぶ陽子、覚醒と同時に右大腿の痛烈な痛みと、右脇腹の激痛が彼女を襲い始めたのだった。激痛に苦しむ陽子を新しい女王の地位を獲得した井上が哀れむように見下ろしていた......。”いたい、ああっつ”身悶えする陽子を抱き浜崎はコールドスブレーを右の肋骨にむけて放射した。

”ああっつ”陽子の脇腹は一瞬感覚を失い同時にその激痛も陰をひそめた、しかし呼吸苦が彼女を襲う

”コーチ、息が...息がくるしい....。”浜崎は陽子をなだめ”大丈夫だ、肋骨を骨折してしまったようだが、その痛みのせいで深い呼吸が出来ないだけだ、ゆっくり浅く息を吸ってみろ、さあ...”

陽子はようやく落ち着きを取り戻した。”ようし!担架で搬送するぞ!”ハ浜崎の指示で陽子は医務室へと運ばれていった。氷嚢を右大腿と右脇腹に当てられ担架の上で全身を襲う痛みに耐えながら、陽子は観衆の暖かい拍手につつまれていた、、担架の上で井上とすれちがうその瞬間、彼女の目からは痛みと悔しさのために大粒の涙がとめどなく流れていた。

 

<第3章、救急処置:雲雀が丘競技場 医務室>

 

”どうです?ドクター”浜崎は心配そうな表情を隠しながら医師の診断を仰いだ。

”うーん、幸い右大腿は軽度の肉離れですね、練習の疲労がそこに集積してしまったんでしょう。

問題は、右の肋骨ですがねえ...こちらも一箇所のみで特に転位もないので簡単な固定で

2カ月もすればよくなるでしょうなあ。”

 

医務室に運ばれたあと、陽子の右大腿には厚手のバンデージが巻かれその上から氷嚢で

アイシングが施されていた、さらにその上から幅広の弾性包帯で圧迫が加えられていた、

さらに医師の指示によって看護婦が陽子の肛門から坐薬を挿入したのだった。恥かしさと、肛門の違和感に表情を歪めた陽子だったが、坐薬を入れられて間もなく当初の激痛は和らぎ、やっと冷静に自分のおかれた状態を把握することが出来るようになったのであった。

看護婦は さらに、陽子の右脇腹に大判の湿布を貼った、”ひゃっ!つめたい!!”心地よい冷感が痛みをやわらげてくれる。看護婦は笑いながら”冷たいほうが、よく効くのよ。さあ次は肋骨バンドをはめるわ、ちょっと痛みますよ、がまんしてね。”陽子に目一杯息を吐くことを命じると、ぎゅうと伸縮性にとんだ真っ白な幅広の肋骨バンドを巻いてくれたのであった。”はあ’やっと息が楽になりました...コーチ、私.....”

陽子はベッドに横たわった体を起こし浜崎の顔を伺った。”何もいうな、田辺...おまえは一生懸命やったよ。怪我には勝てんさ”浜崎は痛々しく腫れ上がった陽子の右足と脇腹に目をやりながら近くの椅子に腰を降ろし時計をみつめた。時計は午後1時、2時からは陽子の引退レースとなるはずだった女子400メートルがスタートする。

 

陽子は弾性包帯で圧迫された右足を床につき、感触を確かめると浜崎を見つめこういった。

”コーチ、私次のレース走ります、いや走らせてください!!”驚きを隠せず浜崎は答えた”それは無理だ、その体ではゴールすることすら困難だろう?もう十分やったじゃないか”しかし浜崎は陽子の熱い気持ちが不屈のものであることを知っていた。”よし、歩いてでもいい、決して無理はするなよ。サポートには十分手を尽くそう....””ありがとうございます、コーチ!”陽子は現役最後のレースにたとえはってでも出場できることに幸せを感じていた。

 

<第4章、足関節捻挫:雲雀が丘競技場、女子400m決勝>

 

女子400m決勝を迎えたスタンドの観衆は、一様に驚きの歓声をあげた。決勝のスタートラインにはさきほどのハードルで、みじめな敗北を喫したかつての女王、陽子の姿がそこにあったからである。観衆の目に映る陽子の姿は大変痛々しいものであった。陽子の身体には、追加の坐薬が挿入され、さらに足と脇腹に計3本の鎮痛剤が注射されていた。

 

ユニフォーム上からは確認できないが、右の脇腹には入念なテーピングが施され、

さらにその上を肋骨バンドで固定されていた、そうでもしなければ彼女の肋骨は一歩のあゆみの度にきしみ鈍い痛みが彼女を襲うのだった。さらに観衆の目を引くのは彼女の右ふともも全体に施された痛々しいまでの真っ白なテーピングであった。もはや誰の目にも、彼女が満足に歩くことすら困難であろうことは明らかであった。

 

しかし、観衆はスタートのピストルと同時に信じられない光景をまのあたりにすることとなった、先頭集団に引き続き陽子が痛みに表情を歪めながらも、好位置をキープしているのだ。一歩一歩踏み出し着地する度に鈍い痛みが彼女の脇腹と右大腿を容赦なく襲う。手厚いテーピングが悲鳴をあげる筋肉と肋骨をかろうじて支えていた。観衆は彼女の善戦にエールを送り会場は熱気に包まれていった。

 

コーナーを抜けいよいよラストスパート、先頭集団に食いついていた陽子も最後のスパートに入った、いい走りができている。陽子はえもいわれない満足感を感じながらさいごのレースを終えようとしていた、各選手がゴール前のトップスピードに達したその瞬間!悲劇は起きた....先頭集団の一人が転倒!ほかの選手が旬敏な動きでかわす中、陽子は痛めた右足で瞬間的にサイドステップを踏み回避に入った、何でもないような動きのはずだった.......しかし、トップスピードで走る彼女の進路を痛めた右足は容易に変えることは不可能であった。一瞬すべてがスローモーションになった、次に着地する右足はその着地点をしきりに探していた、、しかしそこには横たわった転倒した選手の膝が.....陽子は悲鳴をあげた、もうさけられない、彼女の満足にうごかない右足はその選手の膝をかすめバランスをうしなったまま着地しようとしていた。

 

右足関節は最大限に内転したまま足の小指側だけで着地してしまったのである、そのひねられた右足関節に全体重が乗ってくる、、、、”いやああああ!”陽子はどうすることも出来ず叫んでいた!体重をすべて受け止めた関節はその可動域を完全に越えくるぶしと足をつなぐ外側側副靱帯は悲鳴をあげて伸びていく!ブチ...ブチ...ブチッツ!!”うぎゃあああっつ!!”陽子は全身の血が引くのを感じながら、いまだかつて味わったことのない痛みに声を失った。陽子が転倒した!!スタンドは一斉に静まり返った...

 

ピクリとも動かない陽子.....誰もが彼女を襲った度重なる悲劇に目を背けざるを得なかった。”おい...大丈夫かよ...あんな身体で、がんばったのに....”スタンドでは口々に同情の言葉がささやかれる。

 

膝をかかえるようにしてうずくまる陽子はただ唸るだけで、微動だにしない。スタッフが駆けつけコールドスプレーをかけても、その痛みは静まらなかった。患部はみるみる間に腫れ上がりついにはくるぶしすらわからないほどになっていった。

 

スタッフが痛む右足をアイシングしようと触れたその瞬間、脳天まで響く激痛が彼女を襲う!!”いやああ!!だめ、だめ、お願いぃっつ、ああ?!!”身をよじり痛みに耐える彼女をだれも直視することが出来なかった。スプレーによる冷却を続け鎮痛をはかるスタッフ、、激痛に意識が混濁しかける。

 

待機ドクターによる鎮静剤の筋肉注射によりやっと正気を取り戻した陽子は担架で運ばれ自分を襲った2度目の不幸を呪いながら医務室で処置を受けることになった。”うーん、靱帯が切れてるかもしれんな、ここでは無理だ、総合病院に運ぼう”医師は彼女の右足にアイシングと圧迫包帯を施し右足を挙上したままの形で搬送を指示した。わずかな振動でも彼女の全身は悲鳴をあげるほどの激痛に襲われる、陽子は鎮痛剤の切れた右脇腹と右大腿にくわえ、新しい患部の激痛に悶絶しながら救急車で共生病院へとはこばれていった。

 

<第5章、関節穿刺:共生総合病院救急室>

 

すでに2名の看護婦と日直医師が陽子の到着を待っていた、救急車が滑り込むと同時に陽子の乗ったストレッチャーはスタッフに見送られ、救急室の中へと運ばれていった。

”では、皆さんよろしいですか、いちにいさん、はいっつ!”救急隊員と医師らが陽子をストレッチャーからベッドへとテンポよく移す、しかしそのわずかな振動さえも彼女のからだにとっては堪え難いものだった、”あいつつうう”手厚くバンデージが巻かれた右大腿と緊急のテーピングを施された右足関節が力なくしなり、激痛が彼女を襲う、声にならないうめき声をあげる彼女を一べつすると医師は、看護婦に言った”整形の先生を呼んでくれ、あと技師も...。”

 

”鎮痛剤は?.....”救急隊員および浜崎から事故の詳細を聴取しつつ、検査に備え各部に巻かれた包帯やテーピング、ろっ骨バンドをはずしていく看護婦、圧迫と支持を失った捻挫した足関節や太もも、脇腹は一斉に悲鳴を上げ出す、陽子は唇をかみながら耐えつづけた。

 

”状況は?”緊急室に短髪の別の医師が駆け付けてきた、年の頃は30代半ばであろうか、”ああ、広岡先生、すいませんお呼び立てして....”駆け付けた整形外科医、広岡は日直医師から概要を聞いた後、ただちに陽子の診察に移った。”どうです、痛みますか?”陽子の体を優しく診察していく広岡、陽子は痛みにうなずくことしか出来なかった。

 

陽子の右足はその大腿がひどく腫脹し、その背面は皮下出血の為青く変色していた。

右足関節はつま先まで腫れ上がりひどい熱感を伴っていた、右のろっ骨は腫脹こそ少なかったが、2度目の転倒がたたり、骨折端の転位が伺われた。”よし、まず右足関節の内圧解除をはかる、シリンジとピンク針を!”看護婦にそう指示すると広岡はおもむろに彼女の右足を消毒し始めた、”痛みますか?右足は靭帯損傷の為関節内の出血がひどく関節腔内の圧力が上昇しています、検査の前にまずここを穿刺排液しますよ、少しは痛みも和らぎますから...

 

”おもむろに陽子の大福のように腫れ上がった右足首に太い注射針が突き立てられた、”ふっ、んー”痛みの上にさらなる痛みを感じ息をとめる陽子....これまでに見たこともない太い針が音もなくズブズブと進められる、、、広岡がシリンジを引くとそこからはどす黒い関節液が流れ出た...”10....20...30...40...50mL やはり血性だ、間違いない。”広岡医師が注射器を引き抜くときも関節全体が引っ張られるような痛みを生じ陽子はまた喘ぎ声をあげた。穿刺後の傷跡にバンドエイドを貼られた陽子は、捻挫の痛みが少し引いたのに気付いた。”どう?腫れも少し引いただろう、痛みは?”訪ねる広岡に陽子ははじめて声を返した...”ええ、ありがとうございます、少し楽になりました。”陽子に安堵の表情が戻った。

 

しかし、陽子の苦しみはこれだけですむわけではなかった、捻挫に対する必須の検査、ストレスX線撮影が彼女を待ち受けているのだ!

広岡は少し厳しい表情で”ではストレス撮影の準備を!””なんですか?それは...”不安げに訪ねる彼女に説明をする。”右足はかなりひどい捻挫と肉離れです、おそらく靭帯が損傷しているでしょう、、、その程度を調べるために関節の固定性をレントゲンでみるのですよ””すこし、つらい検査だけどこれが終わればあとは鎮痛処置をしてあげるからね。””はい、よろしくお願いします”田辺陽子はレントゲン室へと運ばれていった。

 

<第6章、ストレス撮影:共生総合病院レントゲン室>

 

ストレス撮影とは靭帯損傷を疑った際に、その関節の固定性を評価するために、損傷した関節をその痛む方向にわざと力一杯ひねり度の程度の関節のずれが起こるかを評価する、非常に過酷な検査である、一般に麻酔無しで行われるため、患者にとってはまさに地獄の検査となるのだ。大抵の患者はここで泣叫び悶絶することになる....。

 

陽子を防護服を着た広岡医師が迎えた。”先生も一緒に写るんですか?”不思議がる陽子に広岡は検査の方法をつげた。”つらいけどがんばろうな””はい”覚悟をきめた陽子はレントゲン台の上で緊張ぎみに横たわった。

 

”では、いくよ!”広岡の手が陽子の捻挫した右足を容赦なくひねっていく.....それはまさにあの競技場でスローモーションで体験した異常な右足の内転そのものであった。関節の限界を越えてもなお広岡の手は緩まない”ひいいっつ、くううっつは?”陽子は悶えた、全身を激痛が襲い脂汗が吹き出る...”かっ!はうあ!”全身の血の気が引いていく、”痛い、痛いよ、先生痛いよお!”哀願する陽子、かまわず広岡はねじっていく、、、、陽子は半ば気を失いかけていた、、、グチッツ!!燃えるような痛みに我に返り悲鳴をあげ転げ回る陽子”ひいいっつ、ぎゃあああああああ”、陽子の右足関節は遥かに可動域をこえて脱臼していた。

 

激しく半狂乱になりながら痛みに身悶える陽子を、看護婦達は押さえ付けた、”よし、いまだ撮ってくれ!”撮影の指示を出す広岡、、、、”よし、よく頑張った!おわったよ。”広岡は部屋を後にした。

 

救急室に戻された陽子は、右足のいたみに震えていた、陽子の右足は通常では考えられない方向を向き再びどす黒く、腫れ上がっていた。関節は完全に支持を失いまさにブラブラの状態だ、少しでも動かされようものならさらなる激痛が彼女の脳天を突き抜けるのだった。”やはり靭帯は完全に断裂しているようです”X線写真を手に広岡医師は浜崎や駆け付けた陽子の両親に病状の説明をしている。

 

看護婦はいたわるような表情で陽子の痛々しく先ほどの3倍以上にどす黒く腫れ上がった右足首に湿布を施した、すーっとした冷感が、まるで原子炉の様に炎症を起こしひどい痛みを発していた捻挫部位を優しく癒してくれる、、さらに、弾性包帯で陽子のはち切れそうな関節を優しく圧迫包帯し、その上から氷嚢でアイシング、、さらに大きめのシーネで膝下から足首全体を固定してくれた。その処置により陽子の右足首はやっと少し落ち着きを取り戻した。足首の固定は微妙な振動による激痛を遠ざけてくれたのだ。

 

さらに右大腿にも大きめの湿布がはられ、弾性包帯できつめの圧迫をされた後、その上から氷嚢でアイシングを受けた。きゅっとした圧迫感がとても心地よかった。

 

さらに、看護婦は彼女の骨折したろっ骨の処置に移ろうとした、、、が、患部に目をやった後広岡に何かを報告している。報告を受けた広岡は写真を眺めた後陽子のベッドサイドにやって来た。不安が再び陽子をおそった.....。

 

<第7章、肋骨徒手整復:共生総合病院透視室>

 

陽子は再びレントゲン室に運ばれた、もはや先の事を考える余裕もなくなっていた、彼女のろっ骨は2度目の転倒の時に折れたろっ骨が完全にずれてしまっていたのだ、男性の場合多くはそのまま骨の癒合をはかるが、陽子の場合女性であるため美容上の観点からも整復が必要となる、このまま骨がくっつくと胸の下にろっ骨が飛び出た状態でかたまってしまう....”透視の準備を!!”にわかに周りがあわただしくなった。看護婦が二人で陽子の右大腿と足関節をかばいながら、彼女の身体を再び透視台へうつす、もう陽子は放心状態だった、、屈辱的なレースでの敗北ののち彼女を待ち受けていた余りにも凄惨な怪我、彼女はいま新たな戦いを課せられているのだ。

 

”いいかい、かなり痛いが君は精神的にもかなりトレーニングを積んでいるようだ、、

大丈夫、、心配ない、これから君のずれたろっ骨を徒手的に整復するからね。ほんの少しの辛抱だ””はい、、、おねがいします”消え入りそうな声で返事をする自分がいた。

 

その数秒後、陽子は呼吸を止めることを命じられたその瞬間、”メキメイイッツ...ボクッ!”鈍い音とともに、たえがたい激痛が陽子をおそう...”いぎやあああああっつ!!”悲鳴をあげ起き上がろうとする陽子を看護婦そして技師が力ずくで押し付ける、陽子は痛みに半狂乱になりなき叫び続けた。悶える陽子は白目を向き唇はワナワナと震えている、額と背中は汗でびっしょりだ。

”よし!はいった!!透視お願いします!”指示に応じ技師がレントゲンを照射すると、陽子の折れたろっ骨が鮮やかにモニターに写し出された、転位は整復され、宏岡は満足げにモニターに目をやると”よし、いいぞ、良く頑張った”陽子の震える肩をポンとたたき看護婦に2.3指示を出すと部屋を出ていった。

 

ストレッチャーに移され、息も絶え絶えの状態で陽子は7階の整形外科病棟の病室へと運ばれていった、額に脂汗を浮かべ、痛みに唸りながら病室へ運ばれていく彼女は右の太もも全体に手厚く真っ白な包帯が巻かれ、そのすぐ下から膝から足首までをシーネでしっかりと固定されていた。弾性包帯を巻かれた右足首はつま先まで、どす黒く変色しもはや包帯からはみだした部分はすべて目をそむけたくなる程腫れ上がっていた。上半身に目をやると決して豊満とは言えない胸を痛々しく幅広なろっ骨バンドが覆い、そこから上下に真っ白く爽やかな芳香を放つとても大きな湿布があてがわれているのが見て取れた。そんな痛々しい姿の彼女に他の患者や見舞客の多くは目を奪われ、じっと見送るのだった。陽子の両親は我が娘のあまりに悲愴な姿に、涙をためながら彼女の手をにぎりしめストレッチャーに寄り添うように病室へと向かっていった。

 

<第8章、導尿:共生総合病院7階病棟>

 

”はい、いちにいさん!”手慣れた手順でストレッチャーから陽子は自分の入院ベッドへと移された。移されるわずかな衝撃ですら彼女は”うっく”と低いうめき声をあげるのであった。女性の4人部屋であらたな入室患者は同室の皆の注目の的であった。彼女の右足は看護婦の手により高くつりさげられた。

”なにかあったら、このボタンを押してね”そう言い残し看護婦達は詰め所へと戻っていった。少しばかりの安堵が彼女を包み、いつしか陽子は深い眠りに落ちていった。

 

どのくらいたったのだろう..全身の激痛に陽子は目をさました、同室者はみんな寝静まっているようだった。”うんっ....く..く”右足首は風船のように腫れ上がり焼けるような痛みが彼女を襲う、右のろっ骨も心臓の拍動とともにドキンドキンと鈍い痛みが突き上げてくる。身をよじって痛みに耐える陽子に誰かが気付いたのだろう、、、隣のベットから人陰が近付いてくる、、”どうしたん?痛むんか?....かわいそうになあ”ベッドサイドに寄り添い痛む足をゆっくりとさすってくれる。どうやら隣の女性のようだまだ20才代なのになぜかとてもしっかりした子のように見える。額に脂汗を浮かべ見悶える陽子を見かねたのか彼女がナースコールを呼んでくれた。”どうしました?痛むんですね、可哀想に、、””今坐薬を持って来ますからね”看護婦は懐中電灯で彼女の陰部を照らし大きめの坐薬をゆっくりと肛門に挿入した。坐薬が肛門から直腸へ滑り込む瞬間、陽子はふるっと身震いし一瞬全身の力が抜けるのを感じた、、、”これで、少し楽になりますから..いたみが消えない時は呼んでくださいね”結局、その晩は合計3個の坐薬が彼女の肛門に挿入された。その度に陽子は肛門を滑り抜ける坐薬の独特の感触に身震いしたのであった。

 

翌朝、彼女は遅い朝を迎えた、痛みのせいで寝つけずついつい寝坊をしてしまったらしい、一瞬昨日の悲劇が全て夢であることを期待せずにはいられなかったが、全身に巻かれた包帯と湿布の匂いが、否応無しに彼女を現実へと引き戻すのであった。

 

痛みはいくぶん和らいだようだ、昨日は坐薬に救われた、しかし尿意を感じ起き上がろうとした彼女は予想もしない状況に気付いた、、陰部の違和感に気付いた彼女は自分の下半身に目をやると釣り下げられた右足の下をあめ色の太いチューブがベッドサイドまで続いている、そしてそれはどうやら脇に下げられたバッグに繋がっている様子だった。バッグの中身は、そう、どう見ても尿のようである。陽子は一瞬何がなんだかわからなかった。この管は一体なに?何処に繋がっているの?まさか.....!

 

その管を自分のほうへ辿っていく、静かな衝撃が彼女を襲った、そうそれはまぎれもなく彼女の陰部...しかも尿道口へ挿入されていたのである。どのように固定されているのか引っ張っても抜ける様子はない。心地よい圧迫感を彼女は尿道口の奥に感じていた、そう彼女は入室後すぐに寝てしまいその間に尿道カテーテルを挿入されていたのだった。坐薬を入れてもらっていた時はからだの痛みに手一杯でそんな事実には全く気付かなかったのだ。膀胱カテーテルは特に安静が必要な患者の場合トイレへ移動しなくてすむメリットがあり彼女もその観点から挿入の適応となったのだった。

 

彼女にとってもそれは救いであった、陽子は日頃から膀胱炎に悩まされ排尿痛のため尿意を我慢しそれがまた膀胱炎を起こすという悪循環に陥っていたからである。カテーテルが入っていればおしっこのときに痛みを気にせずにすむのだ。

 

<第9章、膀胱洗浄:共生総合病院7階病棟>

 

昼にはすっかり陽子は同室の女性達と打ち解けていた、けがの経緯や具合など話題には事欠かなかった。”でも、陽子ちゃんオシッコの管入れられて動けへんなんて可哀想やね..””でも、しっかり養生せんといかんよ、こんなに大きな湿布されてる娘みたことないもん””うん、そうですね、、””捻挫もひどそうだね、こんなに腫れてしまって...”

みんな屈託のない同年代の女性であった。

 

午後になり回診の時間である、陽子の入院時の検査結果が出ていた、広岡は尿沈渣の成績に目をやると怪訝そうに陽子に訪ねた”膀胱炎があるね、自分でもわかってるんでしよ?”

陽子はもじもじと返事をした”ええ...””これ、このままだと腎臓に炎症がいって高熱が出たり大変なことになっちゃうよ、治療しないとまずいよね””ええ、結構痛みも強くて..””そうだろうな、これじゃあ、、、よし膀洗お願いね”広岡は看護婦に指示をだすと部屋を出ていった。”陽子さん、それじゃあ、今日から膀洗しましょうネ”看護婦がにこやかに処置台を運んでやって来た。手には大きな100CCのシリンジが握られている。

”え?なんですか ボウセン って?”ちょっとどぎまぎして陽子が訪ねると”ああ...膀胱洗浄のことよ、このあなたの尿道に差してある管を通して液体を膀胱に注入してまたその管を通して液を外に出すのよ...つまり膀胱をきれいに洗うの””気持ちいいいわよ””そんな...看護婦さん...やってもらったことあるんですか?””ふふ....まさか、私はいつもやってあげるほうですよ、さあじゃあいきますよ”

 

おもむろに看護婦は陽子の尿道孔にずぶりと挿入されているカテーテルのバッグ側を外し、シリンジをあてがうと、洗浄を開始した。

 

いまだかつて味わったことのない感触が陽子を襲う、、尿道孔から膀胱そして下腹部が

を生暖かい液体が通り抜けていく、それはいつも排尿のたびひりひりと痛んでいた陽子の尿道を内側からやさしくくすぐるような快感であった。しだいに下腹部の膨満感がつよくなりピークを迎えると、看護婦がたずねた”大丈夫?熱く無いわね?”。陽子は夢見心地に捻挫の痛みも忘れていたが、ハッとして我にかえり”え、ええ、、大丈夫です”と答えるのが精一杯だった。こんどはカテーテルを開放にして、別のバッグに注入した洗浄液を排出していく、しだいにお腹の膨満感がなくなりカテーテルからは白く濁った尿が排出された、”ほら、こんなに膿だらけ、これじゃ相当痛かったんじゃ無いの?今日はあと3回ね、、、”そういうと看護婦は無表情に膀胱洗浄を続けた、、陽子はしばし全身の痛みを忘れ、しずかに目を閉じていた。

 

<第10章、リハビリ開始:共生総合病院理学療法室>

 

病院での療養はつづいた、一日2回の膀胱洗浄と肋骨、太もも、足首の湿布交換が毎日の日課になった、同室の女性患者達は、くり返される膀胱洗浄に興味があるらしく、その感触などを毎回陽子に訪ねるのだった、、”なあ、陽子、あの液入れられる時は痛くないんか?どうなん?なあなあ”

陽子は、この数日の入院でやっと自分のこれからについて冷静に考えられるようになった。怪我はもうしばらく治療を要するだろう、右足の靭帯は断裂したままだ、腫れがひいたら手術の適応を考えると広岡医師が話していた。競技生活は本当にこれで終わるんだろうか?ちょっと咳をするだけで響く肋骨の痛みと、いまだ寝返りもままならない肉離れの痛みが彼女を弱気にさせていた。

 

翌日の回診で広岡医師からリハビリの開始を告げられた、まずは大腿部の低周波および温熱療法が開始された、肋骨はバストバンドで固定、足首もシーネで固定され、毎日理学療法室に通うことになった。右大腿はほぼ腫れもおさまり、筋肉内出血による皮下の結節と軽度の拘縮がみられた。リハビリ室のベッドにうつ伏せになると、ホットパックをあてがわれ、筋肉の緊張をほぐす、心地よい温もりが足の痛みをやわらげてくれる。つぎに大腿の患部を囲むように電極が貼られ、低周波の電気が流される、リズミカルに陽子の大腿の筋肉が律動し、患部の血流が促進され回復を促すのだ。

 

理学療法士は陽子と同年代の女性であった、ネームプレートには佐々木とかいてある、眼鏡をかけ少しきつい印象の女性だ、、。”電気の強さはどう?リハはきついけど、皆がんばってるから陽子さんもしっかりね”。うわさでは彼女のリハビリはかなり厳しく、何人もの患者が泣いて病室へかえってくることもしばしばだそうだ。陽子はけして負けまいと心に誓うのであった。

リハを終え病室に戻った陽子を同室の仲間が迎えた、”ねえ、ねえリハビリどうだった?私なんか何回泣かされたことか、、、””へえーそうなんですか?でもちょっとこわそうだけどリハビリの先生、そんなにひどい人でもなさそうだし、、””まあ、悪い人ではないんだけどね、熱心なのよとても””でも、ねえねえ、みんな聞いたことある?彼女、広

岡センセとうわさがあるのよ!””え?あのリハビリの佐々木先生がですか?””そう、しっかり、できちゃってるみたい、、、””へえ、、わたしだってまけないのになあ、、はは”取り留めのない会話が部屋をみたし、孤独な陽子の心をすこしいやしてくれるのであった。

 

<第11章、尿道カテーテル抜去:共生総合病院7階病棟>

 

陽子の膀胱洗浄液もこのころにはかなりきれいになった。相変わらず洗浄液の尿道への注入と排液の際の不思議な感覚は続いていたが、膀胱炎の軽快と、右足の軽快によりポータブルトイレの使用も可能となったため、尿道カテーテルを抜去することになった。

 

看護婦が二人、処置台をもってやってきた、手には10ccのシリンジを持っている、下半身をあらわにし、足を開くことを命ぜられると、看護婦の一人はおもむろに陽子の尿道周辺をていねいに消毒しはじめた、陽子はくすぐったくてもぞもぞ腰をくねらせていたが、”ちょっと、すぐすむから我慢して下さいね!”とたしなめられてしまった。

 

良く見ると、陽子の尿道に突き刺さっているカテーテルはそのバッグ側で二またに別れていた、これまでに何度もカテーテルを引っ張ってみたが容易に抜けそうに無かったのだが、きっとなんらかの形でカテーテルは尿道に固定されているのだろうな、、どういう仕組みになっているのか興味しんしんで、陽子は抜去の瞬間をまった。

看護婦はシリンジを二またに別れたカテーテルの片方にはめておもむろに水を吸引している、その瞬間陽子の下腹部のつかえが少しとれた感じがした、、”さあ、力をぬいて!抜きますよ!”看護婦が鑷子でカテーテルをつまんですーっと引き抜いていく、、、えも言われぬ感触が陽子をつらぬく、まるで尿道を誰かの指でスーと内側から撫でられている様な感じだ、陽子はたまらず”はあ”と息を漏らしブルッと身震いした。我にかえるとすでにカテーテルは抜けていた、良く見ると膀胱に入っていた尖端には萎んだ風船がついている、そうか、中に入っていた時にはこの風船が膨らんで、カテーテルが抜けないように押さえられていたんだ、、少し感心してしまった。

 

<12章>

その日陽子はほとんど眠る事なく朝を迎えた、いよいよ待ちに待った退院の日。すでに実業団の陸上界からはその名前が上がる事もなくなり、あの壮絶なレースさえ人々の記憶から消えようとしていた。陽子は会社をやめ、トレーナへ退部届けも提出済みであった、おおかたの荷物はすでに実家に送ってある、今日は母親が1人彼女を迎えに来ていた。玄関まで主治医の広岡と数人の担当看護婦が見送りに来てくれた。まぶしい光の中病院の玄関を後にした陽子は松葉づえをつきその右足は大腿部に厚手のサポーターで圧迫され、また右足首はステー付きのサポーターで固定されていた。本来なら十分なリハビリののち退院するべきであるのだが、彼女の精神的な閉塞感を解放する狙いもあり早期の退院となったのであった。痛々しい陽子の姿に呼ばれたタクシーの運転手もしばし釘付けになり、走り出してからもちらちらとルームミラー越しの視線を陽子は感じるのだった。