読み物

X-ray氏作

Sorry Japanese only

 

    (12)逃走

 

------------------Battle

 

男は--------

いや、山下宏美は、ガラスの観音扉の前に立ちはだかり、鋭く光るメスを構えていた。

 

「麻帆を返して」

 

甲高い声で叫んだ。

 

中央に置かれた手術台の奥。

麻帆の足元に立つ、唐橋に向かって宏美は怒鳴る。

 

「私はね、本当は医者なのよ。それなのにいつも偉そうに命令ばっかりして。唐橋先生、あんたなんか大嫌い!」

「医大出たなら、そのまま勉強を続けるべきだったな。看護師免許なんか取っていたから、開放骨折やMRSAの知識が不足するのだ」

 

唐橋の言葉に、一瞬、憤慨した表情を見せたが、唐橋の脇に立つ半田を見つめて宏美は怒鳴った。

 

「半田君。あんたもあんたよ!私に会うたび羨ましい、羨ましいって言うけど、ドクターにはアゴで使われるし、患者には看護婦の方が良いと言われ、名札を見ては名前をバカにされて。こんな私のどこが羨ましいって言うのよ!」

 

そして、最後に篤を悲しそうに見つめた。

 

「そうよ。あんたさえ、入院して来なければ良かったのに。仮面ライダーなんか麻帆の前に現れちゃ駄目なのよ。せっかく友達になれて麻帆とも仲良くなれたのに」

 

喜怒哀楽を全身で表現するような、オーバーな表情である。

明らかに、尋常でない精神(こころ)のようである。

 

唐橋は、途切れそうになる意識の中で、宏美の態度、言葉遣いを見ながら、ある言葉を思い出していた。

 

解離性(D)同一性(I)障害(D)

 

精神科は専門ではなかったが、いわゆる多重人格症で人格解離を起こし、リストカットなど自虐行為を行った患者の診察経験があったのだ。

 

DIDというのは、ひとりの人間に、明瞭に区別される2つ以上の同一性、または人格状態が存在する病態である。

時には性的にもより積極的、開放的な人格状態という、対照的な2つの主要な人格状態を持つことが多く、数名ないし数十名の人格状態を示すことがある精神病である。

 

DID患者に見られやすい精神症状としては、うつ気分、気分変動、自傷行為、自殺企図、心因性健忘、性機能障害、転換性症状、解離性遁走、パニック発作、離人症状、物質乱用、恐怖症、強迫行為、幻聴、幻視、拒食・過食、妄想、思考障害、躁状態などがある。

DIDの発病は幼児期(12歳以前,多くは3−9歳)であると考えられており、DIDの原因に関しては、多くの研究者が多因子説を主張している

解離能力(=催眠感受性)、外傷体験、外的影響力と内的素質の相互作用、保護や慰めの欠如である。

もともと子供は、成人に比べて催眠感受性(解離能力)が高く、幼児期の外傷体験はこの解離能力をさらに高めるという。

慢性的に心的外傷にさらされている子供は、「これは自分に起こっている出来事ではない」、「何も起こらなかった」、「痛くない」と自己催眠をかけ、身体的に避けられない苦痛から精神的避難をすることによって事態を乗り切ろうとすることが多い。

この訓練によって解離能力は高まるが、一方でこの解離は習慣化し成人期まで持ち越され、DIDの基礎になってしまうのだ。

子どもの虐待では、どんなに苦痛な仕打ちを受けても、家族や周囲の成人への愛着を断ち切ることができないという構造が解離を促進すると考えられている。


宏美は、メスを真っ直ぐに構えて、篤に向けて歩き出した。

 

以前、篤はドラマでナイフを持って襲う役は演じた経験があったが、襲われるのは初めてである。

しかも、ドラマでも映画でもない、現実の殺人犯人を相手にしての本番が今。

 

麻帆の絡めた指から、篤の指がそっと離れた。

 

篤は、宏美の右手に握られているメスに、全神経を集中した。

宏美の右腕さえ押さえ込めたら、どうにかなると思った。

例え多少傷ついたところで、細いメス一本で、生死に関わる傷を負うとも思わなかった。

 

殺気立つ宏美を目の前にして、病院で接したときよりも、何倍も大きく感じた。

太い腕、いかつい肩、血走った瞳。

 

牽制のような一撃目は、後ろに一歩下がって、避けることが出来た。

しかし、今度は?

すぐ後ろは、タイル貼りの壁である。

手術室の一番奥の壁に追い込まれた篤に、もう避けてよけるスペースなどどこにも存在しない。

 

防御に左腕を翳して、正面から立ち向かい、宏美の腹に左膝を折って、蹴りを入れた。

しかし、バランスの悪い篤の技が、武道の心得のある宏美に通じるはずもなく、いよいよ篤は、絶体絶命のピンチへと追い込まれた。

 

「篤君、そいつはたぶん多重人格者だ。俺、僕、私と、3人。そして今は女だ。少なくとも3人が入れ替わっている」

 

唐橋のかすれた声が篤に届いた。

女??

 

スローモーションを見ているように、はっきりと、宏美が眉を吊り上げて振りかぶるのが見えた。

鈍く輝くメスが、一瞬のうちに、篤の左腕をなぞるように切り裂いた。

鮮血がほとばしり、散る。

 

「篤―――――」

 

半田の叫び声が響いた。

宏美はすでに次の攻撃を仕掛けようと、構えていた。

 

半田は、フィルムを切る際に使用した鋏を手に取り、左サイドから飛び込む形で、宏美に猛然と向かって行った。

全体重を、わき腹で構えた鋏にかけ、体当たりをするように宏美の腹に突進した。

 

手ごたえはあった。

 

宏美の身体が大きく傾いた。

その反動で手術台が揺らめき、振り落とされそうになった麻帆の身体を、唐橋が全身で支える。

 

宏美の脇腹に、鋏は食い込んでいた。赤黒い血液が流れる。

診察台とピンクの壁の僅かなスペースに、挟まれるように倒れこむ宏美。

 

よろめいて膝を着いた篤に、半田が叫んだ。

 

「篤!小西さんを連れて逃げろ!!!」

 

パジェロとセルシオのキーを投げた。

倒れこんでいる宏美に馬乗りになり、華奢な半田が勇敢にも挑みかかる。

しかし、素早くその身を翻した宏美が、半田に掴みかかった。

 

「篤――――――、行け」

 

激しく咳こみ、両手を着いて血を吐き出す唐橋。

その唐橋が、悲痛な瞳で篤を促した。

その声はかすれるように低く、ため息の大きさほどしかなかった。

 

「行け、行くんだ―――――」

 

悲痛な叫びが、篤の胸に突き刺さる。

左腕から流れ出す血液さえ厭わずに、床に転がる鍵を拾い上げた。

オレは、どうすればいいんだ?

 

 

麻帆は上体を起こし、突然の戦闘シーンを呆然と見つめていた。

 

 

-------------------wrapped in smoke.

 

 

半田と唐沢を置き去りにしてしまって、良かったのかは分からない。

気づいたら、麻帆を横抱きに抱え、歩けないはずの足で歩き出していた。

 

「下ろして、私が残れば…」

 

言いかけて、麻帆は、激痛に悲鳴をあげた。

局部麻酔が効いているとは言え、あれだけの重症である。

篤の腕が支える右の大腿骨も、骨折している可能性が強いのだ。

 

廊下に出たところで、二人は異常な匂いに気がついた。

 

「煙?」

 

汚物を撒いたあと、宏美が火を放ったに違いない。

暗くてよく分からないが、恐らくは白い煙が充満し始めているのだろう。

 

階下から煙が昇ってくるように感じる。

ここは二階、もし窓から出ることが出来れば…。

篤は、廊下の窓を振り返った。

 

しかし、その考えは一瞬にして意味のないものとなった。

鉄格子!!

ここは精神科。当時の代名詞ともいう精神病院の鉄格子は、建物中に徹底されて張り巡らされているのである。

 

篤は歩き始めた。

 

激痛を伴うギプスの左足が、上手く前に出ない。

しかし、麻帆を離すわけにはいかない。

麻帆もまた、痛みと戦っているのだ。

 

酷く足を引きずったこっけいな歩みで、一歩ずつ階段に近づいた。

 

唐橋を殴り飛ばした部屋の前まで来ると、煙の匂いはいっそう強くなった。

やはり、階下から煙が昇って来ているようだ。

 

「あ…篤君」

 

途切れた荒い呼吸の麻帆が、何かを言いかけた。

耳を近づけて麻帆の声を聞く。

 

「反対側に非常階段があるわ…」

 

麻帆が転落した、螺旋階段が二階にも通じているはずである。

迷っている暇はない。

素早く身を翻し、歩き出した。

 

薄明かりが漏れる手術室の前は、異様に静かであった。

いったい何が起きているのであろうか?

戻りたい衝動にも駆られたが、両腕に伝わる麻帆の苦しみが、その場を通過させた。

 

一番奥の非常階段。

麻帆を抱えたギプスの篤には、とてつもない距離である。

 

しかし、身を呈して自分を逃がしてくれた、半田と唐橋を裏切るわけには行かない。

麻帆を決して落とさぬように、何度も持ち上げ直しながら急いだ。

 

「篤君、ごめんね」

 

麻帆の小さな声が聞こえた。

 

返事をする変わりに、麻帆を抱く腕に力を込めた。

麻帆も篤の首に回した両腕に、しがみつくよう力を込めた。

 

ところが!

ようやくたどり着いた二階の奥の廊下には、非常口は存在しなかった。

つまり、螺旋階段の非常口は、四階の元、院長住居からのみ通じているのである。

 

どこかに入院患者用の非常口があるのかもしれないが、それを見つけ出す時間も猶予もなかった。

麻帆の話によるとこの先、三階へ続く階段はバリケードにより閉鎖されているという。

螺旋階段の非常口に戻るには、反対側の階段を上がり、四階まで出なければならないという。

 

必ず、歩いてみせる。

たぶん、そのために自分はここにいるのだと思う。

 

階下からの煙に追い立てられ、歩き出す篤。

 

再び、手術室の前。

半田はどうしただろう。

唐橋は?

 

火事には気づいているだろうか?

 

麻帆も入口前で、心配そうに首を起こした。

気にならないはずはない。

無事でいるだろうか?

まだ、手術室に居るのだろうか?

そして宏美は?

 

刹那の躊躇が、篤の足を止めた。

 

 

----------------An ardent wish

 

 

どうか、無事でいて…

切なる願いを込めて、二人が凝視する扉に、突如、大きな人影が現れた。

 

身構える隙もなく、人影は篤に襲い掛かる。

篤は、たまらず膝を着き、それでもできるだけ静かに麻帆を床に下ろした。

 

人影は宏美であった。

宏美に背を向けたまま、篤は小さくつぶやいた。

 

「変身」

 

もちろん変身などできるはずもない。

満身創痍の身体で、男に立ち向かう武器は、精神力以外何も残されていないのだ。

 

振動から来る痛みに、ちいさな悲鳴をあげた麻帆が倒れこむ。

 

篤が立ち上がる前に、宏美の左手が伸びて、篤の肩を後ろから掴んだ。

 

「おいっ!時計は?俺のママの時計は何処だ?」

 

振り返った瞬間、宏美の拳が、篤の頬に弾けた。

痺れるような熱い痛みが、脳を揺さぶる。

それでも、宏美の左手は、篤を離さない。

 

「懐中時計、返せっ」

 

万力で締め付けられたように、右肩が軋む。

倒れこむことさえ出来ない篤の身体を引きずりながら倒しこむ宏美。

体格差、パワーともに圧倒的に劣る篤。

 

重力に逆らえずに、床に背中を着けて篤は倒れこんだ。

力が欲しい。

挑むことを恐れずに、戦える力が欲しかった。

苦しい呼吸の中で強く願った。

 

宏美の重い正拳が、内臓をえぐるように、容赦なく腹部に突き刺さる。

避けきれないと判断した篤は、攻撃にタイミングを合わせて、打たれた瞬間に息を吐き出すことにより緩和した。

息を吐き出すときが、最も腹筋が強く張るということを、数々の戦闘シーンで篤の身体は覚えていた。

 

荒い呼吸。

それでも、篤の身体のダメージは否めない。

真上から降り注ぐ攻撃に、もはや反撃の術はなかった。

 

宏美の蹴りを避けるだけの敏捷性も反撃できる余力もないのだ。

なす術のない篤に勝機はあるのか。

 

「篤君!」

 

麻帆の声が聞こえた。

ぐっと唇を強く噛み締め凝視する。

諦めない。まだ諦めちゃ駄目だ。

 

正義のヒーローは、最後は必ず勝たなければならない。

 

宏美が篤のギプスを蹴った。

そして、むき出しの指先を踏みつけた。

 

「ぐううううう」

 

息も出来ないほどに激しい痛みが、篤を襲う。

しかし、まだ、諦めない。

 

「時計…」

 

篤のジーンズのポケットを探ろうと、伸ばした宏美の指先を捕まえた。

宏美をできるだけ引きつけてから、渾身の力を込め、ギプスの左足で宏美のこめかみ辺りを蹴り上げた。

 

痛む足を酷使することによって、篤のダメージも激しさを増した。

それでも、体勢を整えるために、腹筋を使い、上体を起こした。

 

感覚が失われるほどに、ギプスの左足は痺れていたが、膝を着いて身構えた。

 

ところが。

 

部屋から漏れる薄明かりが、宏美の倒れこんだ姿を映した。

後頭部から、リノリウムの床に叩きつけられた衝撃で、気を失っているようだ。

 

「麻帆…」

 

手足の震えが止まらない。

恐怖からか?

極度の緊張からなのか?

 

麻帆は何処だ?

今のうちに、逃げなきゃ!

早く…。

 

手探りで、麻帆の気配を求める。

 

左足の痺れは、恐ろしいスピードで、痛みへと変化した。

篤は、ここへ潜入した時に感じた疑問が、少し理解できた気がした。

大切なものを守りたいとき、自分が強く願ったとき、何を犠牲にしてもやりとげなくてはならないということが。

 

たとえ骨が軋み、壊れたとしても、麻帆を救うことは自分に与えられた使命だと思う。

熱くなる身体を本能のままに闘うことを誓った。

 

痛みは消えるどころか、増す一方であったが、それを補う集中力を篤は求めた。

震える麻帆を渾身の力で抱き寄せる。

 

 

 

 

篤は、傷つき折れた足で再び立ち上がった。

 

 

 

 

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