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Sorry Japanese only


ギプスとコルセット10/29 UP
私のサディズムの最初の萌芽−それを述べるためには、12才の少年の思い出によら なげればならない。
当時、私は脚に腫物ができて、京橋にあったX病院に祖母につれられて通っていた。

整形外科で有名であったその病院の診察室で、私は私の半生のサディズムに決定的な影響を与えられた
奇妙な風景に出会わしたのであつた。 というのは、待合室で私は診察の順番を待っていると、やがて看護婦が私の名をよび、
私はこんどは、ついたての陰で看護婦から脚の包帯を解かれはじめたときであった。 私の目のまえに年の頃、18,9と思われる娘が、おずおずと肌着を脱いで、医師のまえの回転椅子に腰掛けたのであったが、彼女は頚から腰にかげて剣道の胴着のような、白いセルロイド製の鎧のようなものを着ていて、処どころに革製のベルトがついており、金属の留金のようなのが彼女のからだを締めていたのであった。

それはあとで祖母の説明によってわかつたのだったが、背椎の湾曲を防ぐための背椎力リ エス用のコルセットであったのである。

看護婦がその娘の胴を締めていた皮革のバンドをほどき、胸から腹部にかけて交互に締 めてあった紐をほどいて、その亀の甲のようなギプスを外すと、少年の私の眼にも異様に うつくしく見える白蝋のような処女の裸身が舷しくあらわれたのであった。

医師は、やがて彼女の背骨を2,3箇所指で叩いたり、圧えて、痛むか、どうか訊ねた が、その娘は 「いいえ、ちっとも、と答えた。」 すっかり快くなりましたな。この分ならもうギプスを外してもよいでしよう。

とこんどは医師が云った。すると意外にも娘の表情には不満の色がかすかに漂って、 「本当ですの、先生。私、つまらないわ。私、いつまでもコルセットはめていたいんで すの。

だってはめていると体がきゆうっと締めつげられてとても気持がいいんですもの。 外すと他人のからだみたいに頼りなくて。 ですからまだ当分はめていてもよろしいんでしょう?」 あきらかに、その娘ば醜態をあらわして、あまい声で医師に言った。 「はめていたけれぱ、結購ですよ。要心深いのに越したことはありませんからね。」

この娘の言葉はその後、20年の歳月の流れた日ののちまで、妖しい魔女の呪いの言葉 のように私の脳裡から離れなかった。 私はその日から背椎カリニス用のギプスに異常な関心を持つようになった。 30才になって私は親戚の世話で見合結婚をした。ただ一度の見合で私がよしと決めて しまったのは、親戚の家で合わされたその娘の、大きな潤んだような瞳と、襟もとの抜け るようま白い肌が、二十年前病院で会ったあのカリエスの娘とどこか似た面影があったか らであった。

結婚の翌年、大平洋戦争がはじまった。臆病な私はすぐに妻の実家の静岡に疎開し、終 戦の翌年、東京に帰ってきた。 私の家は運よく焼けず、祖父の代からの土地もあったので、戦後のインフレ時代も、つ ぎつぎ土地を手離してどうやら生き延びることができた。

ところで焼野原にいつか青い草の芽がふくように、平和な世が訪れると、私の少年時代 からねむっていたサディズムが冬眠からめざめた蛇のように頭を拾げてきた。 ある晩、夜のベッドで、私になぜ私がいちどの見合でお前を生涯の伴侶と決めてしまっ たかの理由をゆっくり話した。

そして私はお前のように痩せた色の白い女に、いちどむかし病院で見たカリエス用のギブスをはめてみたい。それは自分のようになんの才能もない平凡な男の唯ひとつの夢だと告白したのであつた。 妻は私の告白に最初はおどろき、衝撃を受けたようであつた。しかし私が段々に話てし ゆくうちに、私の病的な嗜好を理解してくれたようであった。 私は急に妻に無理な注文をするのも酷だと思って、ながい準備期間−−訓練期間を設 けることにした。

そして私のサディスチィックな話は、いつも閏房で、妻の性的興奮をたかめる愛撫と同時に行い、マゾヒズム的傾向を促進させることと時間を合せて行った。

 最初、私は妻に、黒いサテンの布地を買ってこさせて、洋裁のできる妻に、彼女のから だにぴったり合わせて、布製のコルセットをつくらせた。 それは背椎カリエス用のギプスの模型を真似て、首から腰まですっぼり包んでしまうので、乳房のところは、一つまるくくり抜いた窓をつくり、また腹部のへんも円形にくり抜かせた。

そして頚から胸、腹部の中央を切り開いて、デルタ地帯にまで、両側に小さい留穴をあけて、皮革の紐で交互に締めるようにした。 胴には比較的巾広の皮革のバンドをつけさせ、妻が苦痛を訴える程度に締あつけると、乳房のふくらみが、その反動でぐっと突出てくる。 妻は最初は、 「窮屈ね」 と苦痛を訴えたがなれてくると、自分の方から 「今晩はコルセットはめてね」 と要求するようになった。

そして、昼間でも一日中はめているような日も多くなった。 そこで私はニ段階として、夏の日の夜、文房具屋からボール箱を買ってくると、それ を熱湯のなかでドロドロにやわらかくして、それを、風呂場で素裸にした妻のからだぴっ たりとくっけた。それが乾くとこんどはそれをつけると、ちょうど洋裁師のつかうマヌカ ンのような妻のかけだの模型がでぎあがった。 和紙の乾いたところを、ハサミで切りとり、型を抜くと、こんどはそのうえにサテ ンの衣地を張って、また前につくった布地のコルセツトと同様に乳房と腹部をくり抜 いて窓をあけた。

これでどうやら、本物のカリエス用ギプスに類似したものが、わずかの金でできあ がったのだ。 それがでぎあがると、私は残酷にもそれを昼間でも着用するように命じた。 夏のあいだは、発汗のため妻も辛いようであった。第一、汗でポール紙がゴワゴワ に崩れてくるおそれがあった。

そこでこれは妻の発案で内側に芯を入れ、もう一毎布地を貼って、所々汗のでるような小さな穴をあけた。 それでも妻の肌にはあせもができた。 ところで夏の薄着、たとえぱナイロン・プラウスのようなものだと、コルセットが外部から透けてみえるおそれがあった。 そのためコルセットのうえからどうしてもシュミーズを着けていなけれぱならず、薄衣を つけられないのが妻の最大の苦痛であったようだ。 歩くとぎ妻は、胸を、腰をつんと張って歩かなげれぱならず、近所の人と会っても腰を 折って挨拶でぎなくなった。 妻はひそかにその苦情を訴えた。


私は、 「自分はいまカリエス用のギプスをつけているから 」と言えばよいと言っておいたが、事実、しぱらくして私は近所の者と会話している際に、 「お医者さんにみせたら背椎が悪いというのでギプスをはめているのです」 と話している声を耳にした。 それからまた私は、いがいにも善良そうな隣人が、 「ほんとうにお気の毒に」とか、「お大事に」 とか同情に満ちた声でそう言っているのを耳にしたとき、私は私の罪の深さを感じた。 私はまた妻に対して大へん済まないという気持から、コルセットをはめている日には、とりわけ優しくした。その気持が妻にも伝わったためであろう、妻も 「あなたが優しくして下さるから、どんな辛いことでも、我慢するわ、いいえ、かえって残酷なことして下さるのが嬉しいの」 妻は、いつのまにかマゾヒストになったのだ。


ところで嘘からでたマコト、という言葉がある。 それはいつの日からか妻が腰が痛むといい出した。 私はそれをコルセットで腰を締めすぎたのかと思ったが、あまり苦痛を訴えるので近 所の医師に見せると、神経痛かあるいは力リエスかよく判らない。どうもカリエスかも知 を使った方がいいでしょう、ということであった。 私は医師から、診断書を作ってもらうと、知合にギプスの職人がいるからと嘘をついて、 当時k区にあったギプズ製作所へ直接でかけて行って、病院より低廉でつくってくれるように頼んだ。

職人は事実、病院より2割方安く引受けてくれた。 「明日、奥さんをおつれして、今日の時刻にいらっして下さい。石膏で型取りをしまっすので部屋をあたためて置きますから」 翌日、私はまるで本物の病人のように青ざめた顔をした妻をつれて行った。 四畳半位の板敷き部屋は湯気であたためられていた。

職人が、木製のベットを指さして、 「ではそこに着物を脱いで」 というと妻は、見知らぬ職人のまえで素裸になることに、羞恥をいっぱい見せて、それでもやっと観念した様に帯や紐を一木一本外して行つた。その戸板の様な木製のべッドのうえに、うつむきに寝かされた。

職人はきわめて職業的な、なれた手つきで、石膏のついた布地を妻の頚から腰にかけて一枚一枚重ねだ貼りつけて行った。 しぱらくすると妻のからだは、パーマネントの髪をちぢらした頭と、両腕、両脚をのこし たまま石膏でかためられて行った。 そのあいだ私はえたいの知れない興奮に悩まされていたが、妻はじっとつむっていた眼 をとぎどき開き、いかにも悲しそうな、それでいて喜悦に満ちたような表情をして私を見た。

一週間程すると妻のギプスができてきた。 それば20年前、私が病院の診察室で、若い娘がつげていたそれより素晴らしい出来栄え のように思われた。 私はそれを、密閉した洋間で、花嫁に着せる衣裳のように、はだかにした妻のからだに じかにはめ、胸部の空いた窓から、乳房を摘み出した。

「どうだい、いい気持かい?」 「ええとても。がらだがきゆうと緊締っるようで、とてもい上気持よ!」 その日から妻は本物かニセ物かわからないカリエス患者になったのだ。 彼女は入浴のときとか私の許可を得ないかぎりギプスをはめたままお勝手の仕事をする。洗濯だげは外に出す。 夜はギプスをつけた妻と街に散歩にでかけお茶をのむ。 最後に、私と妻との夜の饗宴について告白しよう。 私は少年時代から風邪をよくひき、そのため湿布のための油紙となじんできた が、その油紙の匂いに異常な興奮を感ずるようになってきた。

それで私は、サデイスチックな嗜好の一つとして、油紙を何枚も重ねて、彼女の顔と合わせて、目と口だけ開けた仮面を作り、それをすっぽりと彼女の顔にかぷせてしまう。 それから、洋間の室それを私たもは愛の部屋とよんでいるが、その部屋には青い電澄がついており、天井の横に紐を張っえ、そこには蚊帳のつり手につかう金属の環がぷらさがっている。 そこに私は両手をあげさせた妻の手頚を環につなぎ、両脚のあいだを開かせる。

油紙でつくつた、仮面をかぷり。コルセットにからだをしめつけられた妻の、世にも哀 れな姿が、そこに丁度、キリス卜教徒受難の絵巻のように現おれる。 ときには私自ら耐えられないような自己嫌悪におそわたるときもあるが、そのような妻の姿に殉教徒の崇高な天使の姿を想うとぎもある。

私はこのような残酷なサディズムの犠牲に供せられた妻に自らの罪悪感と同時にたまら ない憐欄を感じ、まえにも増して愛情を感ずるのだ。 天井から垂れるビニール紐に吊られた妻が、コルセットにつけられた金属の留金 を、青い燈火に光らせながら、哀歓にみちたうめき声を発するとき、それは私に対する最 大の愛の言葉ともとれるのである。 私は自分の妻を、他の誰よりも愛しているつもりである。 そして今後も永久に愛してゆくだろう。(おわり)