読み物

X-ray氏作

Sorry Japanese only

        (8)男の過去

 

------------------Tailing failure

 

少しずつ民家が減り、景色が緑色に染まった。

交差点が消え、黄色の点滅信号が目立ち始める。

いつしか雨も止んでいた。

 

ジャケットを脱いだ半田は、白い制服のままだった。

勤務中に、着替えを抱えて抜け出して来たらしい。

半田の説明によると、白衣こそ着てはいないが唐橋もまた勤務が残っているようだという。

「不振な動き。唐橋は必ず、麻帆の元へ向かう」

そう信じる半田を、今は篤も信じるしかない。

 

「運転変わるか?」

 

不意に半田が、運転席を覗き込むようにして言った。

 

現行の乗用車であるならば、ほとんどの車種にパワーステアリングが標準装備されている。

ハンドルが軽いので、十分に片手運転は可能である。

 

また、オートマ車のギアシフトは、いったんドライブに突っ込んでしまえば、通常ミッション車のようなシフトチェンジは不必要である。

従って、必ずしも左手をハンドルやシフトノブに添える必要はない。

しかし、篤の左手は、不自然な位置から離れずにいた。

 

規則正しい街灯は、まばらになり、車内はインパネが照らすだけの明るさしかなかった。

お互いの表情さえ、よく見えない。

それでも半田は、いつからか篤の左手が、左の膝を強く押さえ込んでいることを見逃さなかった。

 

言葉にこそ出さなかったが、篤も、密かにギプスを巻いた自分の足を懸念していた。

渋滞が解けた辺りから、左下腿の感覚を失い、疼痛を覚え始めた。

やがてそれは、鼓動に合わせるように激しくなって来ていた。

 

「痛むのか?」

「少しな」

「バカだな、何で早く言わねぇんだよ」

 

半田は、そう言うが、今、こんなところで車を停止させることはできない。

そうしているうちに、道は二車線から一車線と狭まり、間の悪いことにセルシオを挟んでいたセダンが左折して走り去ってしまった。

 

パジェロのフロントガラスの向こうは、セルシオのテールランプがグッと近づき赤く灯る。

 

「まずいな…篤、車を停めろ」

 

セルシオの速度が極端に落ちた。

尾行に気づかれたのだろうか?

 

止む無く、篤は左に寄せながら、ハザードを点滅させた。

ブレーキを強く踏む。

遠ざかるセルシオのテールランプ。

 

「急げ!交代するぞ」

 

停止するのとほぼ同時に、助手席から半田が飛び出した。

ボンネットの前を駆け抜けて、運転席に滑り込もうとした。

しかし…

 

しかし、篤は半田のすばやい動き対応することが出来なかった。

座席下部のレバーでシートの隙間を広げ、寝転がるようにしてシフトを乗り越えようとした。

車内を移動して、運転席から助手席へ座席交代を試みようとしたのだ。

しかし、篤の足の痛みは激しく、移動の衝撃に声をあげ、半田の手を借りてようやく運転席から脱出出来たという失態を演じてしまった。

 

数分のタイムロスはあったが、ドライバー交代と同時に、半田はアクセルを強く踏みこんだ。

タコメーターが刹那の歪みを見せ、次々と高速ギアへと移り変わる。

唸るエンジン音。

 

「おい、篤。大丈夫か?」

 

黙り込む篤に半田が問いかけた。

視線は、フォグランプが照らす黄色い景色を映したままで。

センターラインは黄色から白へと変わり、うねる登りの傾斜へと道は続いていた。

 

次第に対向車が少なくなり、ついには途絶えてしまった。

セルシオのテールランプはもう何処にも見えない。

 

県道○○号線が2つに分岐した辺りで、半田はパジェロの速度を緩めた。

 

やがて、ハザードを点滅させ、半田はパジェロを左脇に停車させた。

サイドブレーキを引き、緊張で強張ったハンドルの右手を離す。

そしてゆっくりと半田がルームライトを点けたとき、ようやく篤が口を開いた。

 

「ごめん」

 

つぶやくように言った篤は、唇を噛み締め、眉を寄せた。

 

「いいさ、気にするな。それより足は大丈夫か?」

「足なんてどうでもいい。それよりどうする!見失っちまったぞ」

「それじゃ、質問に答えてないな。ダッシュボードに足上げとけよ」

 

篤は言葉を失った。

何故、半田はこんなに余裕があるんだ。

オレのせいだ。オレが足を引っ張ったばかりにセルシオを見失ったのだ。

深い自己嫌悪に浸り、まともに半田の顔を見ることが出来ない。

 

半田は、煙草に火を点けた。

パワーウインドウを下ろし、冷たい外気に紫煙を押し流した。

対向車も、前、後方車も来ない黒い山の中であった。

 

「早く足を上げろよ。ギプスの足を長時間下げておくと、ギプス内の血液循環が悪くなってうっ血すんだぞ。って、なんだよこれ!すげー腫れてんじゃん」

 

足の痛みよりも、半田の優しさが痛かった。

 

「とりあえず電波が届くところまで戻ろう。でも篤、その足じゃ病院に戻った方が良くないか?」

 

黙って闇を見据える篤に、半田は続けた。

 

「そんなに自分を追い込むなって。素人が簡単に尾行できたら探偵なんていらないじゃん。有る意味こうなることは、予想してたんだよ」

「簡単に言うな」

「少なくとも向こうは、後方からから来たパジェロに不信感を抱いてたと思う。お前のせいじゃない」

 

どんな言葉で慰められたところで、篤の心が癒されるはずもなく、むしろ気楽に語る半田を、疎ましく思い始めた。

 

「じゃあさ、こういう話はどう?セルシオに発信機が付いてるって話」

「発信機?」

「盗難防止用のJPS発信機だ」

 

篤は耳を疑った。

まさか半田にそんな秘策があったとは!

しかもその仕掛けを短時間に行い、さらに尾行をするという、大胆かつ綿密な作戦を立てた半田に篤は感服した。

 

「とにかく、飯だな。他にも色々必要だろ。携帯さえ通じれば、セルシオの居場所は位置情報で地図に出るんだから、心配するなよ」

 

 

-

------------------A fearful dirty hospital

 

麻帆は、一人、廃虚病院に取り残されていた。

 

もしも、本気で私のことを大切に思ってくれるなら、受傷した時点で救急車を呼ぶなどの処置をしてくれたんではないかと思う。

ああ…普通の病院の救急処置室に運ばれたい。

 

男が私に施した処置は、傷口の消毒とガーゼで患部を覆うという簡単な処置だけ。

シーネ固定、抗生物質の投与、バルーンカテーテル挿入。

しかし、これが、ここで出来得る精一杯の処置だろう。

 

麻帆はあせっていた。

もちろん、感染を危惧してのことだ。

何年経っているか分からない薬物。

このシーネやガーゼが清潔であるのか?

全く信用できない。

 

ざっくりと開いた、ざくろのような傷口に気づいたときは、恐ろしかった。

見慣れている筈の血や肉が、自分のものであるというだけで、耐え難い衝撃となって伝わり、激しい眩暈に襲われた。

 

そしてそれは同時に、開放骨折の感染を考え、恐怖は倍増した。

急性骨髄炎。

嫌でもその病名が浮かんでしまう。

 

「急性骨髄炎」は恐ろしい感染症である。

 

最近ではメチシリン耐性黄色ブドウ球菌(methicillin-resistant Staphylococcus aureusMRSA)など多剤耐性菌によるものや、骨接合術や人工関節置換術後の骨髄炎も見られるようになり、病像はいっそう複雑なものが増加してきている。

 

よく「院内感染」などという言葉を耳にするが、これは黄色ブドウ球菌による感染が最も多い。

ゴミや埃に混じり、当たり前のように空気中に漂っているこの菌は、健康な人が感染しても何も起こらない。

しかし、開放骨折等の外傷や、免疫力に劣る感染しやすい患者は餌食となりやすいのだ。

これに病院内で感染してしまうことを「院内感染」と言う。

そして開放骨折の感染は、大腿骨、脛骨、上腕骨に好発するということも、看護師の麻帆は熟知していた。

 

骨髄とは、骨の中心にある海綿状の造血組織で、白血球、赤血球、血小板が、ここで休むことなく造られている。

間違いやすいのだが、骨髄は脊髄(神経系)とは関係はない。

 

骨髄炎とは、骨髄の中に細菌(ブドウ球菌、連鎖球菌、肺炎菌、インフルエンザ菌など)が侵入し、化膿性の炎症が起きることを言う。

骨質骨膜周辺の皮膚にも発赤、腫脹、疼痛、発熱などの炎症が起きる。

 

細菌が血液の流れに乗って骨髄に到達するか、麻帆のように骨髄が外にさらされると、細菌が直接骨髄に感染する。

壊れた骨は、壊死に陥り、腐った骨となる。

周囲の骨は硬化して、骨柩(こつきゅう)と言う硬い骨組織が出来てしまうのだ。

骨髄中の膿瘍は骨外にあふれて、骨膜下膿瘍を形成し、さらに皮膚に至って外界に破れ出てしまう。

 

それが慢性骨髄炎となり、壊死した肉片をいくら切り取っても消毒しても効果が現れずに、最終処置として患部を切断。

さらには、肺や内臓に感染すると、命にも関わって来るという恐ろしい病気なのだ

 

麻帆は骨髄炎に苦しむ患者を長年に渡りケアして来た。

それだけに、抗生剤に耐性を持つこの菌の治療がどれだけ長くかかり、やっかいなものなのか?自分の骨折が、どれほど危険な状態にあるのか?をよく理解していた。

 

清潔な病院でも起こりやすいMRSAであるのに、内臓を掻き出すような不潔な作業の後の、消毒さえ行われていない手術台に寝かされているのだ。

 

ホルマリン漬けの棚の隅に置かれた空色のバケツから、目に見えない細菌が、束となって自分に襲い掛かってくるようで、たまらない不安が込み上げる。

 

逃げ出したい。一刻も早く、こんなところから…。

しかし、意識も薄れそうなほどの激痛と貧血では、自力で脱出するのは不可能と言っても過言ではなかった。

 

すでに受傷後、10時間が経過していた。

 

 

------------------Transmitter

 

 

11月○日(火)7:00 p.m.

結局、篤は、病院には戻らなかった。

足の痛みは、市販の鎮痛剤でどうにか落ち着きを取り戻したようだ。

 

GPSとは、アメリカの軍事衛星を利用した位置情報システムである。

軍事用の航空路、洋上路、ミサイル誘導などの目的で開発されたGPSは、基本的に地球上の何処にいても現在位置が把握できるのである。

 

数年前に利用可能となったそれは、航空機の運航、カーナビ、登山用携帯電話、漁業、携帯電話とさまざまな分野で活躍している。

半田のバイクに設置していた盗難防止用GPSは、大手セキュリティ会社SECONのレンタル発信機で、月々のレンタル料金は900円。

携帯電話からSECONのホームページにアクセスし、登録番号を入力するだけで、位置情報が地図つきで携帯やパソコン送られてくるという優れものだ。

別料金で警備員が駆けつけてくれるというサービスもある。

 

レンタルの発信機の大きさは携帯電話より細く、やや小さ目。

充電した発信機を、バイクや車に仕掛けるだけなのである。

 

セルシオを見失った付近で、パジェロを左に寄せて停車した。

湿り気を帯びた、山道である。

街灯ひとつない暗闇に、パジェロのハザードの点滅は、まばたきをしているようだ。

 

「どうだった?」

「大体の場所は分かったよ。やはり○○山の方角だ」

「それでセルシオまでたどり着けるのか?」

「いや、誤差が生ずるから後は自力で何とかするしかない」

「誤差ってどれくらい?」

「多いときで数十キロに及ぶらしい」

「そんなに?」

「大丈夫。まだ秘密兵器があるから」

 

半田は、後部座席の下から秘密兵器を取り出した。

 

取り出したのは、八木アンテナと呼ばれる屋根に乗っているテレビアンテナのような形の指向性アンテナと、小さな受信機であった。

 

「何だよ、それ」

「車両追跡キット」

「え?何でそんなの持ってんの?」

 

「友達が、これ使って盗まれたバイク取り戻したことがあってね。すごいだろ?もう絶対欲しくなっちゃって、無理して買ったんだ。GPSで計測された付近をこれで探れば、バッチリだろ」

「すげーな。探偵みたい」

「まあね。そのためにバイトしまくったよ」

「バイト?」

「そう。放射線技師のバイトってけっこう時給いいんだ。いろんな病院行ったよ」

「発信機は取り付けてあるのか?」

「もちろん。さあ、イヤホンはめて。これはお前の仕事な」

 

シルバーの携帯電話ほどの受信機にイヤホンをセットし、篤に渡した。

指向性アンテナも50pほどの長さしかなく、なかなかコンパクトに出来ている。

 

「とにかく、急いでGPSの測定した付近に行ってみよう。セルシオが動いたら、場所が分からなくなるからな」

 

篤は、受信機から伸びたイヤホンを装着した。

小さな発信音も聞き逃すことのないよう、神経を集中させ目を閉じた。

 

地図と携帯電話を篤の膝に渡すと、半田はアクセルを踏み発進した。

 

 

-------------------Pocket watch

 

 

11月○日 930a.m.

 

時刻は朝に戻る。

 

男は、ハンドルを右手で支えながら、麻帆から取り上げた懐中時計を左手に取った。

通勤途中の交差点は、相変わらず混んでいる。

 

「ごめんね、麻帆。学校とお仕事は休んじゃ駄目だってママが言ったんだ。帰ったらすぐに足を綺麗にしてあげるからね」

 

男はつぶやいた。

 

この懐中時計、実は麻帆の祖父の形見ではなく祖父の家政婦のものであった。

まだ幼かった男は、亡き祖母に代わり、内縁の妻である家政婦秀子により育てられた。

戸籍上養子となり、父となった祖父は、子供のことなど構う男ではなかった。

代わりに秀子が、我子同然に慈しみ、男の生長を見守ったのだ。

 

当時、世界中で減少していた精神病院の設立が日本で急激に増加していた時代である。

事情がある人物が、家族などに見捨てられ、精神病院という檻に閉じ込められ、退院することなく一生を終える…そのようなことも実在したという。

設備さえしっかりしていれば、辺鄙な土地での開業こそ人気があった。

何かしらの病名をつけられ、正常な人間が、患者になった例も多々あったという。

 

事件は、男が中学生の時に起きた。

毎日、使用人が、町の中学校まで送迎してくれていたのだが、その日の夕方は、いくら待っても迎えが現れなかった。

仕方なく、男がタクシーを使い、病院に戻るとすぐに悲報は知らされた。

入院患者の一人が、院長住居に入り込み院長と家政婦、使用人の3人を惨殺したと言うことを。

 

結局、実兄でもある麻帆の父が、男の身元を引き受けることとなったが、その日以来、全寮制の学校に申し込み、もちろん必要最小限の交流となった。

 

院長不在のまま、閉鎖された精神病院は、売却される予定であった。

男も、当然、売却されたものだと思っていた。

全寮制の中学、高校、医大に何不自由なく、通うことが出来たのは、売却遺産であると思っていたからだ。

少なくない額の貯金も渡されていた。

 

しかし母の思い出を偲び、先日訪れたそこには、昔のままの病院が健在していたのである。

そして男は、どうしても苗字を変えたかった。

麻帆に接近するためには、小西性であるわけにはいかなかった。

 

悩んだ末、男が取った行動は、結婚であった。

もちろん、目的が苗字取得であったため、すぐに離婚を申し出た。

苗字を変えた男は、麻帆に接近するためにM病院に勤務先を移転したのだ。

 

なぜか麻帆は、家政婦であった母に良く似た面持ちであった。

男が麻帆を憎しみながらも、愛してしまうのはその容姿にあるのかもしれない。

 

殺人事件の前日、母は事故に遭い、膝を骨折し、ロングギプスを巻いていた。

入院治療を必要とする怪我であったが、自宅が病院という特殊な環境だったため、4階の自宅にベッドを運び、療養していたのだ。

 

男が最後に見た母の亡骸は、すらりと長く伸びた足の白いギプスが、鮮やかな(あか)に染まっていた。

そしてそれは、次第に褐色へと変化していった。

非情なる殺人犯であるその患者は、刺殺した母の腸を抉り出し、腕や足をバットで殴り、骨を砕いたと言う。

それでも刺殺された母の顔は、血の気が失せて、透き通るように美しかった。

 

やはり麻帆は殺さずに飼おう。

ギプスを巻いて松葉杖をもたせて。

どうしても、母の面影が麻帆に重なってしまうのだから、仕方がない。

麻帆を殺そうとするもうひとりの自分が、麻帆を襲ったとしても、自分だけは麻帆を守りたいと、フロントガラスをにらみながら男は考えた。

 

「麻帆を助けるためには、勤務先のM病院から薬品を持ち出さなければならない。そうだ、麻帆を放置したのは正しい処置だ。僕は間違っていない」

男は、常に全てのことにおいて、自分を正当化して生きてきた。

 

どんな行動も、考え方ひとつで自分が救われるという方法で。

「自分は間違っていない」

そう思い込む信念が、男の勇気であり、逃げ道であった。

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