X-ray氏作
Sorry Japanese only
(10)意外な囚人 -------------------◆. A severe crack 麻帆はなすすべもなく、目を閉じて時間の流れに身を任せていた。 すでに自力で逃げる気力も体力もなく、男の毒牙から逃れる手段は何も残されていなかった。 ぼんやりした意識の中で、死をも覚悟していた。 激しい痛みは続いていたが、あきらめの気持ちが増すと同時に、精神的な落ち着きを少しずつ取り戻すことができた。 不意に、隣室で物音がした。 ああ、ついに男が戻ってきたのか? この広い病院に、生きている人間は、あの男と私しかいないのだから。 「小西さん…」 優しい声で名前を呼ばれた気がした。 とうとう幻聴が現れたのだろうか? 麻帆は、ふと篤に会いたいと思った。 明日の退院に備えて、ギプスを巻きかえた頃だろうか? 出勤しない私を、心配してくれているのかな。 もう会えないのかしら。 「…にしさん。小西さん」 貧血と疲れ、極度の緊張から、時折意識が薄れてしまう。 再び名前を呼ばれたような気配に、我に返る。 ああ、私は何をしていたのだろうか? 勤務中だっけ? 違う…。 麻帆がゆっくり瞼を開くと、心配そうに覗き込む篤の顔があった。 ああ、今度は幻視だ。 一筋の涙がこぼれた。 どうせ死んでいくのなら、篤に触れたいと思った。 そっと、そっと指先を、篤の頬に伸ばしてみた。 これでもう、この痛みや苦しみから解放されるのだろうか? 「小西さん!大丈夫?」 今度はもっと鮮やかな篤の映像が、現れた。 伸ばした指先には、その頬の温かみまで伝えてくれる。 そして、その手を握り返してくる、確かな手触り。 「篤君?」 麻帆は半身を起こした。 その反動で、凄まじい痛みが麻帆を襲ったが、それでも麻帆は篤にもっとしっかりと触れたかった。 夢かもしれない。 夢でもかまわない。
篤は、麻帆の肩に腕を回して、麻帆の上体を受け止めた。 そして篤は、揺らめくロウソクの明かりの中に、麻帆の下腿の激しい出血の跡を垣間見て、張り裂けそうなほどに胸を痛めた。 「大丈夫?」 「なぜ…どう…してここに?」 「正義の味方だから」 篤は、精一杯の笑顔で答えた。 テレビの中でならきっと、「さあ、逃げよう!」と軽々麻帆を抱きながら走り去り、悪者が来たところで、ライダーに変身して戦うのだろう。 しかし、今の自分に出来るのは、抱きしめてあげることくらいなものである。 麻帆の乾いた唇に、軽いキスをした。 「ここには、半田と来たんだ。本当に大丈夫?ああ、酷い血だ。すぐに病院行かなきゃ」 麻帆は、嗚咽を漏らしながら、何度もうなずいた。 「私を…ここから出してくれるの?」 「もちろん。でも、ごめん。オレ、小西さんを抱えてあげられないんだ」 震える肩から麻帆の不安が伝わってくる。 謝ることしか出来ない非力な自分の無力が哀しかった。 「ごめんね。すぐ戻るから」 髪にキスをして、麻帆を元のように寝かせようと、静かに身体をずらした。 そのとき、麻帆が激しく喘いだ。 「ああっ…あ、あ、あーーーー」 尋常でない痛がり方に驚いた篤は、再び麻帆の足に視線を移した。
相当量の血液を吸い込んだタオルで包まれる右足は、高く挙上されていた。 いったい誰がこの手当てを? この傷は犯人に傷つけられたものなのか? そのとき、傷口を覆うタオルが、ほんの少しずれてしまった。 ずれを直そうと、篤が手を触れたとたん、ハラリとタオルがめくれあがってしまった。
挙上し、圧迫止血法を施したことで、すでに出血は治まっていたが、目を背けたくなるような傷口は、骨を露出した状態で開いたままであった。 絶句。 篤は、言葉を失った。 なんということだろう。 まさか麻帆がこれほどの傷を負っていたとは! 本当に、早く病院に連れて行かないと…。 自分も骨折を経験しているが、足が裂け、血まみれの肉の中で骨が割れてバラバラになっている、こんなにむごたらしい骨折を見たのは、初めてだった。 軽い眩暈さえ感じてしまう。 「駄目…あ…篤君。傷、出しちゃ駄目…。菌に感染する…から…」 息も絶え絶えに麻帆が叫ぶ。 「今すぐ、半田を呼んで来るから、ちょっと待って」 逃げるように篤は、タオルを元に戻すと麻帆から離れた。 直視に耐えない赤黒い傷が、瞼の裏に焼き付いている。 篤は、あれほどの傷を負いながら、冷静でいられる麻帆に敗北感のようなものを感じた。 けれどもそれは自分に、目に見えない不思議な勇気を与えてくれたように思った。 助けたい! 必ずここから彼女を連れて脱出するんだ! 固く胸に誓う篤であった。
-------------------◆Misunderstanding
半田は、驚いて振り返った。 なぜなら、その男は、そこにいるはずのない人間であったからである。 まして「遅かったな」とここに現れることを予言までされてしまえば、驚かない筈がない。 拾った鍵束を取り出して、牢の鍵に合わせてみた。 なかなか合わない。 その間、檻の中の男は無言であった。 男の声には、聞き覚えがあった。 半田には、顔を見ずとも、牢の中の男が誰であるのか容易に察しが付いていた。 鍵が開いた。 「こんなところで何してるんですか?」 「よう」 「よう…ってあんた、どういうことだ」 半田は困惑の表情で目の前の男を見つめた。 病院では決して見ることのない姿。 白衣を着ていないと、こうも雰囲気が違うものなのか? それだけではない。 破れたワイルドなシャツを着て、唇から血を流し、右手を抱え込んだ姿は、いつも病院で見かける彼とはまるで別人であった。 「早く出してくれよ」 よろよろと立ち上がり、半田にもたれかかった。 なぜ、こいつがここにいる? この傷は何なのだ! 「説明してください」 「おい、早く行こうぜ。俺たちのマドンナが大怪我してんだよ」 「小西さんが?」 「だから、早くしろって」 「先生、なぜ俺がここに来ることが分かった?」 「え?お前、見てねぇの?懐中時計に手紙入れといただろう」 唐橋は、半田から懐中電灯をもぎとるように奪うと、自分の右手首に光を集めた。 「うっ、ひでぇ。骨折してるかも。俺、自分がギプスになるのは嫌いなんだよね」 唖然として佇む半田。 大きなため息をひとつついて、改めて問いかけた。 「何で唐橋先生が、こんなとこにいるんですか?」 「だから、小西麻帆が怪我してるから診てくれって頼まれたって書いたろう」 「読んでないです。誰に、何て頼まれたのですか?」 「え?じゃあ、どうやってここまで来たの?俺の車を尾行して来たんじゃなかったのか?」 暗い廊下を並び、階下を目指した。 階段を降りかけて、唐橋が思い出したように言った。 「しまった!牢屋に鞄忘れたわ。薬も入ってるから持ってきて。二階の手術室にいるから」 唐橋は、懐中電灯を半田に渡した。 半田は、まだ半信半疑であったのだが、懐中時計のコンパクトを開けなかったのは、事実であった。 その懐中時計すら篤に渡したきりである。 もちろん、篤も懐中時計を開いて、時間を見るようなことはしていないだろう。 唐橋は、2階へ降りて直ぐの部屋に入った。 初めに案内されたこの部屋に、コートを置いたことを思い出したのだ。 小さな薬品棚が置かれた、診察室のような場所である。 部屋はかなり荒れた様子ではあるが、まだ使えなくもないだろう。 コートを羽織ろうとしたが、思い直したように椅子に掛けておいた白衣に腕を通した。 これから軽く診察して、少しでも早く小西君を連れ出さないと。 ああ、やっぱり医者は白衣だな。 右手首の傷が少々心配であったが、何より牢獄から抜け出せた喜びは大きかった。 そのとき! 何か物音がしたと思うと、唐橋の身体は、宙を飛び、折りたたみ椅子をなぎ倒しながら地に落ちた。 一瞬の出来事で、唐橋自身も殴り飛ばされたことに気づいたのは、ゆうに30秒を経過した後であった。
「お前、小西さんに何したんだ!」 倒れこんだ唐橋に、篤は掴みかかった。 「待て…待ってくれ…」 声が出ないのか、必死で首を横に振る唐橋。 苦しそうに、胸を押さえ、肩で息をしていた。 凄まじい物音に気づいた半田は、階段を駆け降りて、入室して来た。 「あーあ。篤、お前先生ぶっ飛ばしちゃって、どうするんだよ」 「え?」 「先生はね、さっき、俺が鍵を開けるまで三階の牢屋に監禁されてたの。だから、唐橋先生は犯人じゃないんだな」 -------------------◆True criminal 「そうだ!半田!小西さんが大変なんだ!」 我に返って篤は、半田の袖を引っ張った。 「ああ、先生から聞いたよ。先生、大丈夫?あーあー、お前、少し加減しろよ」 半田に支えられ、苦しそうに顔をしかめながらよろよろと立ち上がる唐橋。 白衣の背中がすっかり汚れてしまった。 気まずい雰囲気と沈黙。 「篤、忘れ物」 半田が、手にしていた松葉杖を篤に渡した。 先ほど、階段に道しるべのように放置して来た松葉杖である。 右脇に挟むと、篤は唐沢に、申し訳なさそうに頭を下げた。 「すいません。いきなり殴っちゃって」 更に続ける。 「あのう…オレ、まだ訳分からないんですけど、結局小西さんを拉致監禁して、3人の看護師さんたちを殺した犯人って誰なんですか?」 「お前、まだ分からないの?」 半田が少し偉そうな言い方をして篤を見た。 「それはそうと、君たち、急がなくていいのかね?僕は一刻も早くこの場所から退散したいのだが」 唐橋が、顔をしかめながら言った。 どうやら、唐橋医師は、白衣を着ると少々人格が変わってしまうらしい。 そう言えば、ハンドルを握ると性格が変わってしまう…という人も、実在するらしいが。 3人は、麻帆の待つ手術室に急いだ。 手術室。 篤が部屋を出たときと、何ら変わりはないようだ。 それにしても、犯人はどこへ消えたのだろうか? 麻帆も入れ、4人も入ると狭い手術室はいっぱいになった。 「痛みは?」 左手で脈を取りながら、唐端は麻帆を見た。 唐橋の右手は、自分の胸を抱くよう身体に密着させていた。 麻帆は顔色が酷く悪かった。 これだけの出血を考えれば、貧血もなくショックもない方が不思議である。 顔色が悪いだけで済むのなら、まだ、麻帆は幸運であったのかもしれない。 「じゃあ、洗浄を行ったのは、最初の1回だけなんだね。消毒薬?」 唐橋がそっと右足のタオルをそっと剥がした。 「1度洗浄して、固定し直したら少しでも早くここを脱出しよう。恐らく彼はまだ戻らない筈だ。整復のできる医師を探しに戻ったはずだからね」 「二人とも、隣の部屋の薬品棚から、これと同じ容器探して来て。よし、今、殺菌性の抗生物質を注射してあげるから…」 言いかけて、顔をしかめた。 利き腕を負傷していたのを忘れていたようだ。 それでも、左手一本で鞄を開き、何とかアンプルを開けた。 「あと、滅菌ガーゼ、包帯、何でもいいから袋に密封されているのがあったら持って来て」 消毒液の中に手を浸しながら、いつも看護師に命令するように、指示をする。 ロウソクもかなり短くなって来た。 「奴はここで、僕に整復手術をやれと言って来たんだ。こんな不潔なところで傷を塞ごうものなら、必ず感染症にかかるに決まっているのに、馬鹿な男だ。断った瞬間に殴りかかって来た。何を考えているやら…」 「あっ!!」 突然、廊下のドアが開き、篤の横を一人の男が猛烈な勢いで通り抜けて行った。 男は、何やらわめき散らすと、麻帆の傍らから手を伸ばし、一昨日切り取ったばかりの加藤よし恵の臓器入りバケツを掲げ、麻帆の剥きだしの患部に向かってぶちまけた。 それは、その場にいた誰もが、想像を絶する一瞬であった。 男は、一旦、廃墟病院を出るために、唐橋の半田のセルシオまで行ったのだが、林に隠すように停められた、見知らぬパジェロを見つけて戻って来たのだった。 胸が悪くなりそうな生臭い異臭が、部屋中に充満し、麻帆の絶叫が響いた。 「やめて、もうやめてっ--------------------------------!」 「なぜ、ここに来たんだ!殺してやる。お前たちみんな殺してやるからな。俺の邪魔ばっかりしやがって」 半狂乱で叫びながら、激しく興奮した男は、再び廊下に駆け出して行った。 予想も出来ない男の行動に、武器も持たずに乗り込んできた男を取り押さえることも出来なかった。 麻帆の傷はどうなるのか? そしてこの後の男が、どのような方法で、篤たちに襲い掛かるのであろうか? そしてこの男の正体は??? ◆next◆ |
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