X-ray氏作
Sorry Japanese only
(11)デブリードメント ------------------◆A real murderer 激しい感情と汚物をぶちまけて、男が出て行った。 誰も予測できなかった男の行動に呆然と立ち尽くす、篤、半田、唐橋の3人。 狭い手術室に充満する、汚れた臭気。 匂いというものが、目に映る色ならば、この部屋に立ち込める匂いは、茶褐色に溶ける、腐ったレバーのような色だろうか。
観音扉を開放したところで、澱んだ空気の流れが改善されるはずもなく、新鮮な空気を取り入れるための窓は、存在すらしなかった。 手術室奥の白いドアは、しっかりと施錠されていて、開閉不能である。 麻帆が激しいショックから、泣き叫び、取り乱し始めた。 いくらベテラン看護師とは言え、切り取られて時間の経過した臓器は、とても直視できるものではない。 まして、感染が懸念される傷の上に汚物を撒かれるなど、尋常茶飯の常識で、考えられるものではない。 「誰か、そっちの腕、押さえて」 麻帆の叫び声で我に返った唐橋が、抱きしめるようにして、麻帆の肩を押さえた。 「大丈夫。今すぐ洗浄するから。僕がついている。安心したまえ」 殴られて、腫れあがった顔に似合わないキザな台詞で、麻帆を諭した。 それにしても…。 「今のが犯人?」 麻帆を押さえる役を、半田に奪われた篤が、つぶやくように言った。 唐橋と半田が無言のまま、ゆっくりと頷く。 「山下さん!」 つい先日、篤のファンだと嬉しそうに語った山下宏美看護師が、恐ろしい連続殺人犯人だと言うのか? 篤は、あまりにも意外な人物の出現に、呆然と立ち尽くした。 しかし、たった今、自分の目に映った現実が、フィクションではなかったことを証明している。 山下宏美は、その恵まれた体格に似合わず、女性的な柔らかい雰囲気を持った「優しいお兄さん」と言うタイプの看護師であった。 篤も入院中、昼間の時間帯や、担当看護師の麻帆のいない時間は、同性の気安さもあり、宏美にかなり面倒を見てもらった。 正直、篤の中では信用している人間であった。 もちろん篤だけではない。 誰もが、宏美が殺人犯と知ったときは、驚きを隠せなかったに違いない。 もちろん隣室で、永遠に眠る看護師たちも同じ気持ちだろう。 「夕方、僕のところに彼から小西君が、怪我をして僕を呼んでるから来て欲しいという話があったんだよ。何を聞いても事情があって訳は話せないという、怪しい話が」 「でも、先生は断らなかった」 「相手が小西君じゃなかったら、断ってたよ。そのときに、彼女の懐中時計を見せられた。なんとなく嫌な予感がしてね、懐中時計を預かって、保険というわけじゃないが、半田君に託したんだ」 「え?落としたんじゃなかったの?」 「喫煙者じゃない僕は、用もなく喫煙所には行かないよ」 「でも、なぜ先生のセルシオだったんですか?」 「僕は、運転してないと酔うから他人の車には乗れないんだ」 医師免許は所有しているが、宏美の専門は、整形外科でなく精神科であった。 看護師になったものの、整形外科へ配属されたのはつい最近で、整形外科専門の詳しい知識は持ち合わせていなかった。 病院内で書物を調べてみたが、簡単な縫合ならまだしも、複雑な整復手術などできる自信は、全くなかった。 唐橋を連れてきたのは、麻帆を好きな唐橋医師を利用することを思いついた、山下宏美の苦肉の策であった。 正気の沙汰ではない、執着心と行動。 殺人を犯した後も、通常に勤務を遂行できる、壊れた心。 とても常識では、計測できない異常な事態である。 いったい、いつ、何が彼をここまで狂わせたのだろうか?
夜明けには、まだ遠い時間であった。 -------------------◆Operation 篤は、薬品棚の前に座り込み、必死に消毒液を探す作業を続けた。 どの薬も、かなり年代もののようであるが、消毒液の効能は問題ないのだろうか? 無言のまま、薄明かりの中で茶色の小瓶を手探りで漁る。 僅かな沈黙を破り、麻帆が叫んだ。 「みんな、逃げてください。あの人の目的は私だけです。本当に何をされるか分からないし、ここに居たら危険です」 長い睫を震わせながら麻帆の瞳からは、幾筋もの涙が溢れ出した。 好意で救出に訪れてくれた三人を、これ以上危険な目に合わせるわけには行かない。 あの男に常識や一般論など通用しないのだ。 「大丈夫だよ。牢に入れられたときは、焦ったけど、こうして半田君たちも来てくれた。必ず僕たちがここから連れ出してあげるから」 「そうだよ、小西さん3人対1人なんだから」 「1名は、入院患者だけどな」 麻帆を励ますように言った台詞だったが、結果的には自分たちが励まされた。 麻帆はそれ以上何も言わなかった。いや、言えなかった。 ただただ、駆けつけてくれた三人に感謝するしかなかった。 「先生、ありました」 篤が、数本の消毒液のビンを掲げた。 「さあ、消毒だ」 半田と篤は、当然、その消毒液で傷口を洗い流すものだとばかり思っていた。 ところが唐橋は、手にした消毒液で、半田と篤に手洗いを勧めた。 「今から君たちに、僕の代わりに医者になってもらう」 あまりにも唐突な唐橋の言葉に、ふたりは顔を見合わせた。 「消毒液を傷にかけると思った?イソジンやアクロノールで傷口を消毒しないと感染してしまうって思いがちだけど、消毒しても、創面周囲の細胞を殺すだけで、感染予防としては効果がないんだ。逆に再生すべき細胞を殺してしまうから傷の治りが遅くなる」 「え?じゃあ、傷口の洗浄は…」 「温生理食塩水や温めた水道水で大丈夫。今日は生理食塩液(塩化ナトリウム(0.85〜0.95w/v%) と注射用水を注射剤の製法により製したもの。保存剤を含まない)を使う」 「感染はね、細菌が原因でなく、その壊死組織が異物として創面に残留して、そこに細菌が増殖して起こることが多いんだ」 そこまで言って、唐橋は、傷が痛んだのか苦しそうに顔をしかめた。 唐橋もまた、顔色が優れない。 それでも、かすれる声を振り絞るようにして説明を続けた。 「それで、デブリードメントを行いたい」 「なんですか?デブなんとか…」 「デブリードマンというんだが、要は挫滅した組織を切り取ることだ」 「え?」 カミソリですっぱり切った傷などを除いて、大抵の傷の縁(創縁)は挫滅している。
簡単に説明すると、壊死した自己組織により感染が広がるので、切り取ってしまおうと言うのだ。 「ほんの少し削る程度でいい。どうせここでは骨折の整復までは出来ないから、あくまで応急処置的に行う。それから骨のかけらなど、異物の除去だ」 半田が、唐橋の鞄からゴム手袋を取り出した。 ひとつを篤に渡し、生理食塩水で麻帆の創傷の洗浄を開始した。 創傷にワセリン浸透ガーゼを覆い、まずは周囲の皮膚を消毒液で洗浄する。 唐橋の指示に従い、半田が局所麻酔を数箇所にプツプツと注射した。 もちろん、注射器を扱う半田も緊張していた。 足は震え、思うように指が動かなかった。 あれほど憧れていた医療行為だったが、いざ患部を目の前にすると胸が潰されるような思いであった。 ガーゼを外すと、鮮やかな筋肉の赤が目に突き刺さる。 露出された軟部組織や骨は、決して創傷内に押し込んではいけない。 体外に出た組織は、汚染しているので創内へ戻そうとすると、より深い部分を汚染させてしまうのだ。 そして、曝露された骨を軟部組織中へ戻すことなく副木を添えなければならない。 これは、鋭い骨片の動きによるそれ以上の軟部組織傷害を防ぐために、特に下腿長骨の開放骨折においては重要な事である。 局部麻酔が効き始め、麻帆の苦痛も和らいだようだ。 落ち着いた様子で、仰向けのまま天井を見つめている。 篤も、激しく緊張しながら麻帆の傍らに立っていた。 骨折の痛みも忘れそうなほどの創傷である。 唐橋が照らす懐中電灯の映す患部に、意識を集中する。 篤は、目を逸らしたいのをグッと我慢した。 恐らく、半田も同じ気持ちであろう。 果たして、自分に医者の真似事などできるだろうか? 役者のオレにそんな演技が…いや、演技じゃない。 やらなくてはならない。 顔を歪め、震える右手で鑷子というピンセットのようなものを手に取った。 ああ、オレはとても医者や看護師にはなれないな。 などと思いながら、篤はようやく砕けた骨のかけらのひとつをつまみあげた。 しかし、篤はそれ以上、何ひとつ手を出すことが出来なかった。 篤のメスは、麻帆の傷に触れることは出来なかったのだ。 自分では度胸はある方だと思っていたにも拘らず、極度の緊張のせいなのか、手足が震えて意識までもが遠のいていくようであった。 情けない自分のもどかしさを疎ましく思いながら、半田を見守った。 そんな篤とは対照的に半田は、唐橋の指示に従い、血腫など死滅組織を取り除き始めた。 冷静にメスを操り、作業をこなしてゆく。 創傷は暖めた大量の等張食塩水か乳酸リンゲル溶液で完全に洗浄する。 十分な洗浄は、汚染物質と異物を薄め洗い流すことによって、身体防御機構を援助するのだ。 ここにある生理食塩水のパックは、十分な量とは言えなかったが、ともかく、すぐさま創部の処置を終え、この場所から立ち去るしか麻帆を助ける方法はないのだ。 「骨から菌が感染してしまうと、骨髄炎と言って、骨折の何十倍も危険な状態になるんだ」 通常、創傷部の消毒は、病院に運ばれ清潔な場所で行われる行為である。 しかし、敢えて唐橋は思い切った行為に踏み切った。 また、唐橋が無理に洗浄を行ったのは、麻帆乾き始めた傷口を見た為でもあった。 創傷はまた、急速に脱水壊死を起しやすい。 洗浄後は、湿ったガーゼスポンジと湿った開腹術用パッドなどが、創傷の湿り気を維持するために重要なのである。 「傷口は、しっかり消毒して乾かして治すものである」 「カサブタはキズが治ってきたときにできる」 そのように認識している人も少なくないだろう。 実際、そのような昔ながらの治療法を取る病院も少なくない。 「消毒液で傷口を洗い流し、ガーゼで覆う」 これが昔ながらの、手当ての基本とされて来たからであろう。 しかし、最近この手当て方法が、大きな間違いであったという事実が広まりつつある。 傷は、乾いた状態よりも、湿った状態の方が早く治る。 湿った状態の方が、上皮形成が促進されるからだ。 傷が乾くと、カサブタが出来る。 しかし、カサブタが出来ると上皮形成が阻害され、カサブタ自体が異物であるために、感染の原因にもなり得るのだ。 要するに、傷口を消毒せずに生食水などで洗い流し、異物を取り除き、創傷被覆材(サランラップのような素材)で傷を覆い乾燥を防ぐことが、早く治癒に至り、感染をも防ぐと言う理論なのだ。 唐橋は、この理論を高く評価していた。 これは、急速に広まりつつある、新治療法なのである。 夏井睦氏という、有名な形成外科の教えの受け売りであるのだが、彼のセミナーに訪れて以来、この治療法に共感し、賛同していた。 また、現実に治療しながらにして、よい結果を得ていたのも事実であった。 驚いたことに、ごく軽傷の擦過傷から大きな皮膚欠損にまで効果があったのだ。 市販製品に「キズドライ」なる傷口を乾かし、消毒するという製品があるが、こちらが間違った古い知識のまま開発された商品であることは、言うまでもない。 事実、化膿するなど苦情の多さに一度は回収された商品である。 「先生、これで大丈夫ですか?」 骨片や切断された肉片、異物と思われるものは、できる限り取り除かれ、洗浄も済んだ。 「完璧かどうかは、この明かりじゃ確認できないが、必ず効果はあるはずだ。次はこれで創傷を覆ってくれ」 用意して来た、アルギン酸と創傷被覆材(ハイドロジェルとフィルム)を取り出した。 「本当にこんな不潔な場所で、感染は大丈夫なんでしょうか?」 半田が心配そうに、唐橋に尋ねる。 タイル貼りの床は、おびただしい血液と体液、どこの部位だか選別不能の変色した臓器と流れた生食液で、ヌルヌルしていた。 すぐ下の足元には、腐敗しかけた小腸が渦を巻いているのだ。 「細菌によって炎症(主に患部の膨張、疼痛、発赤、局所熱感のどれか)が起きることを、感染症と呼ぶんだ。簡単に言うと、化膿しているということ」 半田がうなずいた。 「細菌は異物・壊死組織と一緒だと傷を化膿させる。傷が化膿しないようにするには、細菌を除去するのではなく、異物や死滅組織を除く方が大事なんだよ」。 これらがなければ、細菌はとてもおとなしい存在なのだ。 創感染の予防は、一にもニにも、異物、壊死組織の除去なのである。 「ぶっちゃけて言うと、創面に細菌が居たって構わない。異物や壊死組織がなければ、細菌も悪さができないからね」 「もし感染症を起こしてしまっても、正しい治療法さえ行えば、大丈夫だから」 麻帆は、黙って唐橋の説明を聞いていたが、医師としての知識の高さ、研究熱心な様子に感心せずにはいられなかった。 また、それは麻帆にとって、眩い希望の光でもあった。 実際、麻帆や唐橋の勤めるM記念病院では、整形外科部長や院長の指示で、従来のガーゼで傷を覆い、消毒液を使用する方法を用いていた。 従って、唐橋の支持する治療法は、患者が申し出た場合と、説明して納得してもらえた場合のみ行われていた。 ガーゼ交換のたびに傷を削ぐような痛い思いをしていても、傷口を消毒しないという行為に、納得できない患者が多かった。 その他の総合病院でも、従来の方法を重んじる、頭の固い先輩医師やベテラン看護婦に隠れるようにして、この治療法を実践している医師が多いのが現状のようである。 もちろん、積極的に新しい治療法を行う病院も全国的に増えつつあるのだが。 不意に部屋の奥が、暗くなった。 一本のロウソクのロウが燃え尽きて、自然に消えてしまったようだ。 残りのロウソクの寿命も後僅かのようである。 「よくやった。さあ、固定して脱出しよう」 唐橋に励まされ、拙い手付きではあるが、篤も手伝い、新品のバンテージ包帯でシーネに固定し、即席の医師による応急的手術は無事終了することが出来た。 篤は手袋をはずすと、そっと麻帆の手を握った。
そしてまた、一本のローソクの炎が燃え尽きた。 ------------------◆Rib fracture 「さあ、脱出だ」 誰もがそう思ったとき、唐橋が、急にガクリと床に膝を着いた。 「先生!」 半田が駆け寄り、唐橋の背中を支えた。 唐橋は、前かがみになり、苦しそうに顔を歪めると口から血液の混じった泡を吐き出した。 「先生、もしかして肋骨を…」 「ああ、フレイルチェストかも」 半田が、残ったバンテージ包帯を手に取り、唐橋に固定処置を施そうとすると、その手をゆっくりと制した。 「僕は、自分が治療されるのは好きじゃないんだ。大丈夫、冗談だよ」 「まさか、さっきのオレが殴ったから…」 「いや、山下の方だ。何か武道の心得があるらしい」 唐橋は自力で立ち上がったが、苦しげな浅い呼吸は相変わらずであった。 肋骨骨折は、非常によく起こる骨折のひとつである。 主に、転倒や打撲などの外傷によって発症する場合と、スポーツ活動や風邪などによる疲労骨折として発生する場合とがある。 症状は持続する胸部痛で、痛みは咳や深呼吸、体動時にて増強する。 特に、気胸や血胸を合併し、呼吸困難を訴えるときは要注意なのである。 例えば骨折した骨が肺に突き刺さり、呼吸困難に陥るケースも有るのだ。 他にも、一本の肋骨を二箇所、あるいはそれ以上の骨折を認める骨折が、連続して三本以上存在する場合(フレイルチェスト)なども、呼吸困難に陥る可能性がある。 麻帆の移動は、担架で運ぶつもりであったが、現時点で健康な身体であるのは半田だけである。 麻帆にかなりの負担がかかってしまうが、半田が抱えて脱出する方法が、最も時間的に早そうな手段のようだ。 「先生、セルシオのキーは持っていますか?俺たちの乗ってきたパジェロが破壊されているかもしれない」 「ああ、スペアなら…」 鞄を引き寄せて鍵を取り出し、半田に渡した。 これで、脱出の準備は整った。 篤も、自己嫌悪は残るものの、気を取り直し、できるだけのことはしようと、心に決めた。 ところが、残るロウソクが最後の一本となったとき、何と山下宏美が手術室に、一人戻ってきたのである。 ◆next◆ |
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