第15話
土曜日。 遠藤伊織は今日も来ていない。4日も連続で無断欠席だ。 雛とのこともあるし・・少し心配になってきたな・・。 日曜日。お父さんが『おじさん』の家へ行く日。 「それじゃあ、行ってくるよ。」 「あなた・・やっぱり私も・・・。」 「いや、俺一人で平気だ。」 「でも・・。」 お父さんは、お母さんの頼りないなで肩に手をポンと乗せ、 少し笑って「心配するな。」といい、玄関を出た。 不安そうなお母さんに、あたしは雛と出かけることをすすめた。 二人とも、あまり乗り気ではなかったけれど、 トボトボと歩いて出かけていった。 怖いくらいに静まり返る、家の中。時計の音だけが響く。 カーペットに寝転んでくだらないワイドショーを見ながら、 あたしは、遠藤伊織のことを考え出した。 あたしに普通に接してくれたのも、 全部、父親の罪滅ぼしだったのかもしれない。 どうせあんなやつ、所詮そんな男なんだ。 結局なんだって自分のため。自分が苦しまないため。 それだけのために・・あたしに・・。 ・・・・だけど、 思えば、入学式の次の日の、あのとき。 あいつが話し掛けてくれなかったら、 あたし、学校に行ってなかったかもしれない。 たとえ、罪滅ぼしのためだけだったとしても、 あいつに救われたって事実は変わらない。 いま、きっと遠藤伊織は悲しみのどん底にいるんだ。 誰も助けてくれなくて、どうすることもできなくて、 きっと、きっと苦しんでる。 あたしもそうだった。 誰も話し掛けてくれなくて、話し掛ける勇気も無くて、 悲しみのどん底で、「あたしには佐久間くんがいる」なんて 自分で自分を慰めながらも、誰かが手の差し伸べてくれるのを待ってた。 そして・・あいつが差し伸べてくれた手に、 あたしはつかまった。 ・・今度は、あたしが手を差し伸べる番だ。 悲しみから救ってあげなくちゃいけない。 遠藤伊織が父親の罪滅ぼしなら、 あたしは、雛の罪滅ぼしだ。 それでいい。それで、お互い様。 あたしは、そこまで考えると、鏡を見もせずに、家を出た。 遠藤伊織の家は、いちど、雛にきいたことがある。 あたしがいつも通る東明埜駅のすぐ近くの、古いマンション。 そこの何号室かは知らないけど、行けば分かるはず。 あたしの心は、不思議と明るかった。 ずっとずっとかかっていた靄が、薄くなってゆくかんじが判った。 「ついた・・。」 あたしは急いで、ポストを調べた。 204号室のポストに、『遠藤』と書いてあった。 中を調べると、遠藤伊織宛のダイレクトメールが入っていた。 あたしは、汚い階段を駆け上がっていった。 204号室。たしかに、遠藤と書いてある。 インターホンを鳴らすが、返事はない。 3回ほど鳴らしてみたけど、返事は全く無かった。 ドアのノブに手をかけると、スルリと回った。 カギ・・かかってないんだ・・。 あたしは、恐る恐るドアを開けた。 玄関には、踵をつぶしたあとが残っているスニーカーと、 男物のサンダルがひとつだけ。 ・・・一人暮らしなの? 「遠藤・・。」 返事は無い。 「遠藤伊織・・いるんでしょ?」 ガサッと、紙袋のような音がした。 「ねぇ!あたし・・亜矢音。」 今度は、ガタン、と音がした。 「入るよ・・。」 くつを脱いで、そっと廊下を歩いていった。 散らばるビニール袋。だけど、埃などはあまりなく、キレイだった。 一歩一歩、奥へ進んでゆく。 突き当たりの部屋の前で、足を止めた。 カーテンがしまっていて、電気も消えている。 ムンとする暑さと湿気の中に、彼は居た。 「ねぇ・・返事して・・。」 「・・。」 壁にもたれて座りながら下を向いている。 右手にはペットボトル。 あたしは、またゆっくりと近づいていった。 「ねぇ・・。」 声をかけても返事をしない。 仕方が無いので、隣に座った。 「4日間も無断欠席して、何してたのよ。」 「・・・。」 「聞いてる?」 「聞いてる。」 やっと口を開いた。 ソコから零れでた声は、あまりにも頼りの無いものだった。 「答えて・・。」 「・・ずっと、こうしてた。」 「・・・・。」 沈黙が走る。 「食べ物は・・?」 あたしがそう聞いたそのとき、遠藤伊織の細い腕が伸びてきた。 「!!」 驚くヒマも無いほど急だった。 手首をつかまれたかと思うと、突然、あたしの唇に、遠藤伊織の唇が重なった。 あたしは思わず彼の唇を噛んだ。 「痛ッ。」 「なにすんのよ・・。」 彼の目線は・・とても冷たかった。 学校にいるときとは別人のように、暗く、冷たい。 その鋭い目線に、あたしは恐怖すらも覚えた。 少しずつ、少しずつ、顔が近づいてくる。 あたしは耐え切れなくなって、彼の手を振り解いた。 その瞬間・・。 ドサッ、という音とともに、あたしの視界は天井へ移った。 床に背中や肘がぶつかり、おもわず、痛い!と声をあげた。 この状況を理解するのには、少し時間がいった。 ・・・あたしの上に、彼が覆い被さっている。 押し倒されたってこと・・? 「な・・にするの・・?」 恐怖と混乱とが入り混ざり、あたしの声は掠れていた。 遠藤伊織は、あの冷たい視線のまま、左手であたしの右の頬に触れた。 大きな手・・中指と薬指の先で、耳たぶをかすかに挟んでいる。 彼の冷たい目線は、苦しそうに変わった。 ずっとこんな体制でいるのには抵抗があったけれど、 体はちっとも動かないし、声すら出なくなってしまっている。 視線のやり場に困ったあたしは、静かに目を閉じた。 突然、あたしの頬に触れていた遠藤伊織の手が動いた。 指先で、耳の裏のほうをいじっているような・・。 一体、何をしているんだろう・・? そう思った瞬間、あたしの左目にふわっと、空気が触れた。 「・・えっ・・・?」 どう・・いうこと・・? 左目に、ゆっくりと手をやる。 ・・眼帯が・・・取れている・・・。 呆然として、まるでヌケガラのようになっていたあたしは、 手で、その感触を感じ取り、やっと我に返った。 「い、いや・・いやぁ!見ないでぇえ!!」 思わず、自分の声とは思えないような、甲高い、ひどく掠れた声で叫んだ。 それと同時に、あたしの頬に、何か生暖かい雫が落ちてきた。 右目を大きく見開いて、最初に目に飛び込んできたものは、 目にたくさんの涙を浮かべて、苦しそうな表情で、 あたしを・・いや、あたしの左目の傷をじっと見る遠藤伊織の顔。 ずっとずっと、隠してきたこの傷。 両親にだって見せたくなくて、寝ているときも眼帯を外さなかった。 よく、昔の漫画に、頬などに傷跡をつけた男等が出てくるけど、 あたしの傷は、そんなカッコイイものじゃない。 誰もが目を覆いたくなるような、ひどく痛々しい傷。 何度手術を繰り返しても、治ることは無かった。 「これが・・・父さんがつけた傷なのか・・・。」 かすかな声でそう呟いて、あたしの手首を離し、彼は立ち上がった。 「悪かった・・。」 声にもならない声で、泣きながらろうかを歩いていった。 この、左目の傷よりももっと深くて痛々しい傷が、彼の心にはあるんだ。 ただバクゼンと、あたしはそんなことを思った。 しばらく、放心状態で寝そべっていたが、 カーテンの隙間から射すオレンジ色の光にハッとして、 あたしは急いで起き上がった。 眼帯をつけて、靴もちゃんと履かずに玄関を飛び出した。 「ハァ・・ハァ・・ハァ・・。」 マンションを出てすぐのところに、公園がある。 あたしは、そこのブランコに座り、あたりを見回した。 砂場で遊ぶ、小さな女の子たちや、すべりだいを降りてくる男の子たち。 あの事件さえ起きなければ・・誰も傷つくことは無かったんだ・・。 涙が・・止まらなかった。 NEXT