読み物

Sorry Japanese only

The youthful days for CAST

2002.8.07 C.G.J. アシスタントディレクター

The youthful days for CAST

 

これは、ある少年の実際にあったギブス体験の話です。みなさん、最後まで、お楽しみください。

 

目が覚めると、僕は、ベットの上にいました。顔を横に向けるとそこには、子供用の車椅子が置かれている。僕は、入院したのだとすぐに分かった。僕は、起き上がって母を呼ぼうと思い、体を起こそうとするが、体は起き上がらない。なぜだろう?僕は、そう感じ、まさかと思って、お腹に手をやった。すると、ギブスが巻かれている。僕は、首を起こし、自分の足元を見た。すると、ギブスが、みぞおちから下の左足以外の全ての場所に巻かれている。僕は、今日あったことを思い出しました。

 

+++

 

僕は、中休みに学校のグランドで遊んでいた。友達と最近学校内で流行ってるトラックの廃タイヤに乗って、誰が、一番遠く行けるか競い合っていた。僕は、クラスでも運動神経は良いほうで、常に一番遠くまで行き、グランドの端にある花壇とのしきりになっている駐車場のタイヤ止めの手前で誰か来いよといわんばかりに待っていた。そして、今日もそうなるはずだった。しかし、物事は常にうまく行くものではない。僕は、いつも通り花壇の手前止まろうとしたときに、足を滑らせ、前にこけてしまった。しかも、運が悪かった。膝のお皿をぶつけてしまった。鈍い音がして、僕は倒れこんだ。とにかく、痛い。痛すぎる。友達が2,3人近寄ってきて、大丈夫って聞き、ある友達が、保健室へ走った。

 

僕は、そのまま、病院に運ばれた。途中で、気持ち悪くなってきた。その瞬間、僕は骨折したのだと悟った。そして、いざ病院に着くと、学校から連絡を入れてくれたお陰で看護婦さんが、車椅子を用意して玄関で待っていた。母もいる。僕は、すぐに、診察室、そして、レントゲン室の順に運ばれた。そして、運命の瞬間が来た。医者に告げられるときである。僕の膝は、きれいに2つにお皿が割れていると言われた。僕は、膝に慢性的な病気を持っていたので、手術は不可能といわれた。そして、とりあえず、処置をするからと、処置室にストレクチャーで運ばれた。そして、麻酔をさされ、眠りについた。

 

+++

 

 記憶はそこまでだった。僕は、何があったのかと思うと、母の声が近づいてきた。医者と話している。そして、僕の所にやってきた。

そして、僕は、麻酔をした後のことを聞いた。

どうやら、2枚に割れた膝のお皿を少し、元の位置に戻したらしい。そして、下半身を動かさないように、腰から下にギブスを巻いたらしい。なかなかの大掛かりな作業だったという。ギブス巻くのに医者が四苦八苦したとか。そして、これからは、3日に1回ギブスを外して、お皿の位置を少し動かし、そして、またギブスを巻く。その生活を1ヵ月続けなくてはならないと言う。しかも、1ヶ月間は、入院しなくてはならないのだそうだ。しかも、退院後も大体、4年間は、車椅子で、最悪の場合、一生あるけないかもしれないそうなのです。僕は、心の中で、少し喜んだ。あの、僕の大好きなギブスを巻く瞬間が3日に一回味わえる。あの、まず、濡れた感じが最初して、だんだん暖かくなってくる。そして、暖かいうちにどんどん固まっていく。短時間で。そして、冷めた頃には、ガチガチになっている。あれが、好きなのだ。僕は、本当に喜んだ。そして、僕は、もう1つ喜ぶことがあった。それは、僕のこれから、生活する部屋の場所だった。6人用の大部屋で、一番入り口に近いところでした。そして、向かいにある部屋が、凄かったのです。

−ギブス室−

 そう、ギブスを巻く専門の人がギブスを巻くところなのです。しかも、その病院が足の怪我の治療で有名な病院ってこともあって、車椅子姿で、みんながギブス室に入って行き、ギブス+車椅子という姿で、出てくるのです。それが、1日に20人以上いるのです。そして、さらに嬉しかったのは、その横が、倉庫で、ギブスの材料とか包帯とかを保管してあるんです。しかも、そこは、鍵がかかってないので、出入り自由なのです。僕は、下半身ギブスのため、ストレクチャーでしか、移動できなかったので、そこにはいけなかったのですが、看護婦さんが包帯を抱えて出てくる姿は結構最高でした。

 

そんな感じで、僕の入院生活が続きました。そして、1ヵ月後、僕は、座った状態で、下半身ギブスをして、車椅子で退院しました。1週間家で閉じこもり、1週間後、学校に行きました。その時のことは、忘れません。

僕の学校は、8時半始業なんですが、9時くらいに遅刻して登校しました。そして、保険の先生に車椅子を押されて入ってきた僕の姿にみんなが、驚きの表情を見せたのです。本当に、驚きの表情でした。病院に遊びに来てくれてた友達は、僕が、車椅子で登校するのは知ってたのですが、それでも、驚いてました。しかも、短パンをはいた足からは、ギブスが見えてます。

 

そして、次の休み時間になりました。みんな、僕によって来ました。なんか、今で言うと、加藤あいとか後藤真希のような超一流アイドルが目の前にいるみたいな感じでした。そして、僕は、腰まであるギブスを見せませた。みんな、それを見て、さらに驚きの表情を見せました。それからというもの、毎休み時間ごとに、車椅子かして、ギブス触らして、腰までギブスってどんな感じなの?って、一日中言われる生活をしていました。しかも、ギブスが外れるまで、さらに2ヶ月かかった僕は、本当に充実していました。

 

 

そして、ギブスが外れた後も、その後、3年間、つまり、中1の最初まで、車椅子だったのです。膝のお皿を割っていたので、普通に歩いたり、走ったり出来るまで車椅子だったのです。その間に色々ありました。中学受験もありましたし、受験塾にも車椅子で行きました。友達の家も車椅子で行きました。そして、どこか行くたびに、車椅子の僕を振り返ってくれたのです。そのたびに、僕は、興奮しました。今、あの人が、車椅子の僕を見てくれてるんだって。

 

こんな、僕のギブスとの出会いは、凄く単純でした。

 

それは、小1の運動会も終わり、秋も深まった日曜日でした。僕は、友達と友達母親と母で公園に遊びに行きました。そこで、僕は、右足をくじいてしまいました。僕は、痛かったのですが、問題なく走れたので何にも言いませんでした。しかし、その夜になっても痛みが引かず、次の日学校を遅刻して、病院に行きました。

結局、強く捻挫していて包帯で固定することになりました。そして、子供用の松葉杖を借り、人生初の松葉杖姿で診察室を出ました。そして、僕が松葉杖を横に置いて座っていたとき、衝撃的なものに出会ったのです。遠くのほうから、車椅子に乗せられた少女が、近づいてくるのです。両足に白いものをしていました。最初は、包帯かと思いましたが、何か違います。足の先には、水色の綿が出ています。なんだろうと思いました。そして、彼女が僕の目の前を通過しました。確かに、彼女の足は、白いもので固められています。僕は、興奮を覚えました。心のそこから、あれが、したい。なぜ、僕の足はこんなしょぼいのなんだなんて思いました。

 そして、学校に行きました。みんなが、僕の見慣れない姿に驚きました。そして、それを貸してと、みんなが僕のところによって来ました。そして、僕は、快く松葉杖を貸しました。そして、みんなが僕に優しくしてくれませんでした。僕は、一躍ヒーローになりました。でも、僕の頭には、そんなことが、そのときはどうでも良かったのです。あの子が足にしていたものが、気になって仕方ありませんでした。授業中も給食のときも、家に帰ってアニメを見てるときも、どんなドラえもんの不思議な道具やドラゴンボールが一つ集まったことよりも気になりました。そして、どうしたら、あれをしてもらえるのかって考えました。

 そして、それから、1週間がたち、僕は、診察に行きました。そこで、僕と先生はこんな会話を交わしました。

 「どう、痛い?」

 「はい。」

 「包帯で固定してると、少しましかな?」

 「あんまり。」

 「どうしようか… ギブスって言うのあるんだけど、それをしたら、もう少しましになるかもしれないけど、する?」

 

 僕は、何も考えず、痛いのが嫌でこう答えました。

 「はい。」

 まさか、僕はあれがギブスなんて知りもしませんでした。そして、母もギブス装着に同意し、僕は、ギブスというものをすることになりました。

 僕は、車椅子に乗せられ、病院の2階にある、怪しい部屋に連れて行かれ、ベットに寝かされました。そして、看護婦さんが、僕の足に、靴下のようなものを指先から、股関節まで、履かせ、そして、青い綿を足に巻きつけました。そのとき僕は気付きました。これが、あの少女がしていたものなんだと。そして、看護婦さんが、すばやく、僕の足に包帯を巻き始めました。しばらくすると足が熱くなってきて、しばらく足を動かさないでねって、言われているうちに、だんだん冷たくなってきて、固まりました。僕は、感動しました。あの白い固まりが自分についてるのだと。

 僕は、今度は心置きなく学校で、ヒーローになれました。そして、僕は、みんなに足に何してるの?って聞かれて、ギブスって答えるのが快感で仕方なかったです。そして、触らしてあげるときも!

 結局、ギブスを3週間しました。松葉杖には、最初から数えて、3ヶ月近くお世話になりました。これからも、分かるようにかなりの大きな捻挫だったのですが、何より、未だに気になって仕方のないことがあります。なぜ、あの時、LLCを装着したのか?足首の捻挫なら、SLCが普通だと思います。しかし、確かにあの時はLLCをしたのです。未だに不思議です。

 

しかし、あの硬さ、手触り、汗がしみ込んだ感覚。または、中にたまった、垢の固まりが、ギブスの中に存在してるような肌触り。痒くてもかけない不自由さ。どれをとっても、僕には、この上なくそれが、自分の中で、一種革命的だったことをこの小学校1年生、つまり6歳という年齢で覚えたことは、一生忘れられません。

 

 そして、その後膝を骨折したのですが、僕は、僕の日記によると、僕の身の回りの人が、小学校時代に、僕以外に、SAC7人、LAC28人、SLC5人、LAC12人して、松葉杖を24人、車椅子を2人が経験してるのです。(僕は、小学校に入学したときから、字の練習のために日記をつけていて、そこには、日常のことのほかに、ギブスのことが沢山書かれています。そして、自分のギブスのことは、そのときの会話や心情が、結構書かれているのです。)

 

 そんな僕も、一度だけ、ギブスを嫌いになってしまったことが、あります。

 僕は、受験をして、中学に進学し、車椅子なしで生活できるようになりました。そして、医者に進められて、何か足を使うスポーツを勧められ、テニスを始めることにしました。僕の学校は、中学テニス界でも、有名で全国大会にも行っている学校でした。でも、レギュラー練習以外は楽で、友達もテニス部に入ったので、僕もテニス部に入りました。そして、僕は、それなりに練習し、テニス部に入る前から仲の良かった林とダブルスを組みました。僕たちは、結構練習して、中2で何かの間違いで、交流試合のメンバーに入りました。そして、中3でも市大会、県大会、地方大会でもうまく、試合に出れ、全国大会に出場を決めました。僕たちは、学校の中で最も長く組んでいるダブルのペアーで、息があってると顧問にも評価されました。

 

 そして、全国大会を1週間後にしたとき、僕たちは、軽井沢で合宿を張りました。そして、長野県代表の高校と練習試合をすることになりました。僕たちは、その試合で、僕たちのオーダー定位置である、D-1で、出場しました。そこで、事件が起きました。

 ゲームカウント44で迎えた。林のサービスゲームでした。僕たちは、速く深いサーブで相手にロブを打たせる作戦にでました。そして、林は注文通りの速く深いサーブをいきなり決めてくれました。そして、相手は、注文どおりのロブを打ち上げました。ちょうど、コース的に前衛にいた僕の後ろに落ちる感じでした。ちょっと、強すぎだろうと思いつつ、バックステップで、下がろうとしましたが、いつもより、0.5タイミング遅れました。それをみた林は僕の膝のことを学校で最も知ってるだけに、膝がいたいのかなと思って、オーライといいながら、突っ込んできました。しかし、周りの過剰な応援と暑さで僕は、その声を聞き取れませんでした。

 そして、僕は、林の足を踏んでしまい林が僕に乗っかるようにこけました。僕は、そのとき、小1のときと同じ痛みを右足首に覚え、起き上がることが出来ませんでした。実は、林も、右足の踝を小学校の頃に骨折していました。そして、林も右足首を押さえて倒れこみました。顧問が、駆け寄り、そのまま僕たちは、病院に運ばれました。2人とも幸いにも骨には異常がなかったのですが、靭帯損傷の恐れがあるといわれ、ギブスをされました。SLCでした。そして、松葉杖をつき、顧問に連れられ、宿舎に帰りました。宿舎は、お葬式をしているような雰囲気が漂っていました。僕たちは、みんなに状況を報告し、顧問の部屋にすぐに入り、慰めをうけ、部屋で寝そべりながら、ナイターを見ていました。ご飯は部屋で、食べました。そして、ナイターが終わってもまだ、みんなが話し合いをしていました。内容は、僕らの替わりに誰を全国大会に出すかでした。そもそも、僕たちの学校は、ダブルス2枚看板を誇り、シングルで1個勝てば、問題なしといわれていました。だんだん、罪悪感を感じてきました。しかし、顧問に、会議には、加わるなといわれていたので、そのまま部屋にいました。しかし、日が変わっても話し合いは、終わらず、僕たちは、寝てしまいました。

 

 結局、代替ペアーも決まり、全国大会の日がやってきました。僕たちは、松葉杖+ギブスって言う姿で応援に行きました。そして、このとき、ギブスが本当に嫌いになってしまいました。なぜなら、僕たちのチームは、優勝をしたのです。ですが、僕たちは、その舞台に立てなかったのです。

 

 しかし、そんな僕をもう一度ギブスに目覚めさせてくれたのが、CGJでした。僕は、たまたまこのサイトを見つけました。怪我のリハビリも順調に進み、テニスをやるために走りこみを始めた時期でした。そこで、沢山の写真にふれ、ギブスにまた目覚めたのです。

 

 そして、自爆も試みました。左手を自爆骨折したのです。LACをしました。始めての腕ギブスでした。

 

 また、僕は、この自爆である確信を得ました。僕は、腕ギブスをして、林と野球を見に行ったときのことです。ぼくと、林は外野自由席で座っていると隣に、ギブスをしたOLが座ったのです。林は、試合中にぼくとOLのギブスを試合そっちのけで見るのです。(彼女は、右手にLACをしていました。三角巾もギブスも薄汚れていて、いや、正確には、ギブスが黄ばんでいて、もう1ヵ月以上してるのかな?と思ってしまうものでした。結構、細い体格だったのを考えたら、なんとなく、どっかで、転んだのかな?なんて、想像してしまいました。)僕は、そのときに、確信をしました。林は、ギブスマニアだと。まだ、本人には未確認ですが、確かにそんな気配がします。そして、よくよく考えたら、あいつは、自分のギブス体験をよく僕に語っていました。というより、彼と僕が試合に行くときは(ダブルスのペアーなので、常に行動をともにします。)、いつも、僕と彼のギブスの話か、テニスの試合の打ち合わせか野球の話しかしたことがないと思います。別に、僕が、話を持ち出すわけでなく、彼から、持ち出していました。

 

 そもそも、僕と彼は、面白いくらい話が会うのです。下の名前も同じで、野球が好きで、テニスもお互いに何の相談もなく、同じラケットを買ったこともありました。で、趣味も共通点が多く、まるで、兄弟と思ってしまうほどの人間なんです。僕は、そんな2人の関係からしても、彼がギブスマニアである可能性は、かなり高いのです。しかし、彼が、違ったときが、怖くて確認できないのです。でも、いつか、確認したいと思ってます。そして、そうなら、CCJへ呼びます。

 

ちなみに、彼の体験談は、こんな感じです。彼は、近所の道で鬼ごっこをしてました。すると、彼は、階段で、足を挫いてしまいました。彼はそのまま歩いていたのですが、痛くて我慢できずに、病院に行ったそうなのです。すると、彼の右足の踝がきれいにはがれていて、SLCと松葉杖という姿になったそうです。彼の口から、この話は、100回は軽く聞きました。踝がはがれっるとどう痛いとか、ギブスが、ここの部分に当たって、痛かったとか、ギブスが臭かったとか、始め借りていた松葉杖が不良品で、カチカチという音がしなかったとか やっぱ、彼は、ギブスマニアだったような気がします。ギブスマニアか医者でないと、松葉杖のカチカチという素朴な音にまで気を使わないと、思います。(僕は、あの音が好きでたまらないのです。)そして、なにより、自分のギブス体験を何よりも楽しいことかのように語らないと思います。

 

 こんなことで、僕は、4度で4種のギブスを経験しました。

 LLCSLCLAC、下半身ギブス

 僕は、LLCが、好きです。僕自身松葉杖が結構好きなので、松葉杖が、うまくいかせるLLCが、好きなのです。そして、僕の経験から、自爆希望者の方にアドバイスします。自爆するなら、足首、手首で、被害の少ない所が、良いです。なぜなら、ギブスがlongになると、確かにしてるという感覚は沢山得られるのですが、生活にかなりの支障が出て、また、医者もlongは、不自由だからと早く外したがります。それに、仕事や学校生活では、周りからの注目が多いものの仕事などに必要以上の支障が出ることが多いと思います。それに対して、shortだと、ギブスをはめたという感覚が、程よく得られる上に、生活にlongほどの支障も出ず、また医者も少し長めの装着もあまり嫌がりません。僕も、本当は、longが好きです。しかし、shortの方が、長期装着には向いていると思いました。

 

かなり、長い話ですが、最後まで、読んでいただいてありがとうございます。僕は、典型的理系人間のような脳の構造なのですが、実は、文を書くのが好きなのです。また、機会があれば、このような長い話を書きたいと思いますので、そのときは皆さん、読んでください。本当に、最後まで読んでいただいて感謝しています。




自叙伝
-----------膝にかぶれて-----------オールドマン


  今を去る40年以上も前の事です。

  夏休みに藪のなかで遊んでいて漆にかぶれて、
  病院通いをしていた時の忘れがたい思い出です。   

  小生は湿布薬を塗ったガ−ゼを両頬にあてられ
  それを、額から側頭部にかけて十文字に包帯を
  されていました。

  ある日、名前を呼ばれて治療室に入っていくと
  まだ、処置の終わっていない先客が居たのです。
  その患者は小生より若干年上の中学1,2年生の
  少女でした。


  馴染みの看護婦が小生のほうを見て、もう少し
  待っててね。と、言いました。

  そして、少女に、ほら、あの男の子も漆にまけたのよ  
  と言いました。少女は少し頷いただけでした。


  少女の両方の腕には、すでに手の甲から肘の
  少し上のほうまで包帯が巻かれていました。そして、
  その後の処置の一部始終を小生は目撃したのです。

  少女の顔中には赤いブツブツが散らばり、所々、既に
  爛れた様になっていました。看護婦は白いベタベタした薬を
  少女の顔に塗りたくりはじめました(小生も塗られるやつです)

  小生は、頬と額だけですが、彼女は顔中殆ど全部。
  そして首筋にも。最早彼女は白塗りのお化けです。


  看護婦は大きなガ−ゼを何回か折りたたむと、
  少女の顔にあてがい、鉛筆で印をつけ、切り抜き始めました。


  少し仰向けにした少女の顔に再びガ−ゼがかぶせられ
  油紙をあてて看護婦が二人がかりで、彼女の顔に
  包帯を巻き始めました。一人がガ−ゼや油紙をおさえ
  もう一人が包帯をまいていきます。額のあたりを二三回
  巻くとこめかみの所で向きを変え、今度は頬から縦に
  頭から顎までぐるぐる巻き、最後に首のところを
  巻いておわりました。看護婦は「はい、上は終わり。」と言い
  L型カ−テンを小生の目の前でしめました。


  やがてカ−テンが開き目の前に現れたのは
  水色のブラウスと紺のスカ−ト以外は真っ白な包帯に
  覆われた少女の姿でした。

  まだミニスカ−トなど流行する前の時代の事ですから
  丈の長いスカ−トの奥の方までは見える訳は有りません
  小生の目の前でカ−テンが閉められたと言う事は
  少女の足は脹脛よりもっと上の方まで、
  漆にかぶれていたのでしょう。


  ガ−ゼと包帯の隙間から覗く彼女の黒い目、そして
  薄桃色の唇が小生の網膜に焼き付けられました。

  当時、小生は第二次性徴期には到って居りませんでしたが
  少女の衣服以外は包帯に覆われた痛々しい姿が
  小生の気持ちを掻き乱しました。以来包帯をした女性を
  見かけると、胸がときめく様になっていました。


  現在では漆にかぶれた位では、包帯をぐるぐる巻く
  と言う事は無いのでしょう。また漆にかぶれることも。
  医学も進歩して、恐らく透明な軟膏を薄く塗るぐらいでしょう。

  小生が子供の頃には外科病院にいくと必ず
  包帯を巻いた女性がいたものですが、最近は殆ど
  お目に懸りません。たまにチラチラと白い色がちらつくと
  例のあの色気の無いネット包帯。がっかりです。


  また、ギプスにしても新素材のせいか腕骨折でもあまり
  三角巾で吊って居ないようです。

  やはり美しい女性には痛々しい姿が似合います。
  また子供時代の話になりますが、女の子はよく家事を
  手伝っていたので指を切ったり、火傷をしたりで
  田舎のこととて悪化してから医者に行くので
  必ず、ぐるぐる巻きになっていました。


  中には秣切りで(何のことか解りますか)指を切断した子も
  います。(まぐさきり、と言って家畜にあたえる草、枯れ草,藁
  等を切り刻む道具)
  現在では患者の予後や負担の軽減の為にあまり
  包帯を厚く巻くことはしないようですね。

  包帯マニアとしては残念ですが、本物の患者には
  慶賀すべきでしょう。
 

2001.8.04ペリカンズ

私のギブスへの感情の芽生えは小学校3年生の時でした。
夏休みが明けて学校へ行ってみると担任の若い女の先生(恐らく教師歴23年目くらいでかなりの美形に加えて熱心で優しかったことをしっかりと覚えています。)がギブス姿で私達の前にやって来たんです。

先生は骨折や捻挫ではなくて、外反母趾の手術をしたと言っていました。
それから2学期が始まったんですが、その先生は通常の仕事を足を引きづりながらこなしていました。
(松葉杖は持って来ていましたが、ほとんど授業中や生徒の前などでは使っていなかったと思います。)


先生はそんな状態なので運動などはもちろん出来ませんでしたが体育の授業もこなしていました。
そして、2学期が10日くらい過ぎた日にギブスから装具と包帯姿に変わりました。そして、私達生徒に対して、間違っても絶対に先生の足を踏まないように注意して欲しいとか、突然ぶつかったりしないようにして欲しいとか、自分の足の治療中の注意事項を優しく真剣に私達にお願いしていました。

そして、一方の足を包帯と装具でグルグル巻きにして踵だけしか付かないで歩く姿は本当に痛々しくて、私もその時は本当に先生を守らなければという気持ちで一杯でした。

でも、その翌日の体育の授業中にアクシデントは起きてしまいました。
その日から体育はマット運動と跳び箱の授業でした。
先生は模擬演技ができないことを私達に謝っていたのを覚えています。
それから跳び箱の時に先生は足をかばいながらも、生徒に怪我が無いようにと跳び箱の横で補助をしていたんです。
そして私の番が来た時に私は思いっきり跳び箱(6段だったと思います)を飛ぼうとして、不覚にも跳び箱の上でバランスを崩してしまったんです。

その為に慌てて先生が私を受け止めてくれたんですが、
私が先生の足の上にちょうど着地してしまって患部の親指の付け根あたりを思い切り踏みつけてしまったんです。
(もちろんその時は本当に無意識で不可抗力でそうなってしまったんです。)

その瞬間の先生の痛がり方は本当に尋常では無かったんですが、私もその時に軽い捻挫をしたということや生徒の中でとても驚いた人もいたので、先生の自分の痛みと生徒を気遣う気持ちが交錯した感じがとても印象に残って、その時に異様な興奮が自分の中で起こっていたんです。

そして、すぐに他の先生が呼ばれて(なんと先生自身が職員室まで呼びに行きました。その時の歩き方は今までのかばい方とはかけ離れたほどに辛そうで全く足が付けないのにかなり無理をして歩いている感じでした。)、すぐに先生と私と二人揃って他の先生の車で近くの整形外科に行きました。

(車中でも先生は私のことをまず心配してくれていたんですが、自分の足の痛みと手術後の足が私に踏まれて一体どうなってしまったのかといったような先生自身の不安が私には自然と伝わってきました。)
そして病院でも先生は自分よりも私の診察を先にするようにと病院の方にお願いしていたんですが、明らかに症状が私よりも先生の方が重かったので先生が優先されました。

そして、私も違う部屋で治療を終えて部屋を出ても先生の治療は続いていたようです。
そして何もなかったように私は学校に戻ったんですが、その日は先生は私達の前には戻ってきませんでした。
それで私も私なりに責任を感じて心配したんですが、翌日先生は無事に学校にきました。ただ違っていたのは、足にまた大きなギブスをつけており、今度は松葉杖を終始ついて足を絶対に地に付けないようにしていました。

それで私が深刻な顔で謝りに行くと逆に私のことを気にかけてくれて、自分の足は心配ないというとと、私に心配させたことと捻挫をさせてしまったことへの謝罪をしてくれました。

それから1ヶ月以上も先生は大きなギブスを付けたままで、とても痛々しくて不便そうな姿を毎日見ていると不謹慎にも先生の足を踏みつけた瞬間の衝動が蘇って来て興奮が忘れられなくなってしまいました。

その後に先生はまた装具と包帯の姿になったのですが、その時の自分の足をかばって心配している姿とそれでも生徒を避けるわけにはいかないといった、つまり自分の足をまた踏まれるんではないかといったような心配してかばっている姿と授業や生徒との接触もきちんとこなさなければならないというような葛藤が先生は隠していても私にははっきりと見て取れて子供心にとても興奮するようになってしまいました。

だから、それ以後今でもつい私はギブス姿の女性を見かけると、先生の痛がる顔や心配そうな顔を思い出してしまうようになってしまいました。

                         以上です




書いてみました
2001.8.03アウトサイダー
はじめまして。去年からネットをやり始めて最初に見つけたこのサイト。
素晴らしいのひと言に尽きます。

私とギプスの出会いは20年くらい前。同級生が高い所から落ち、次の日から三角巾で腕を吊ってきたのが始まりです。それ以来、腕ギプスに興味を持ち現在にいたります。
中学生の頃、体育祭の棒倒しやら騎馬戦をやりたくないのと、オルテックスって言うんでしょうか?青い包帯を1度でいいから巻いてみたいがため自爆を試みたのですが未遂に終わり、それ以来自爆はしていませんがチャンスがあれば今でも行いたいくらいです。

自分がギプス姿になることも良いのですが、やはり女性のギプスもたまりませんよ。実を言うと今、住んでいるところは整形外科のある病院の側に住んでいますが女性が腕を吊っていたりする光景に出会うことはなかなかありません。だから盗撮とかは出来ません(デジカメもない)が、このサイトは私がギプスフェチであることを再認識させていただたところであり、今後ますます発展を願います。


私の告白
2001.8.01タカシ
高校生の時に女子が手を骨折してギプスを巻いているのを見てときめいたのがギプス フェチの始まりです。
今はギプスをするのも良し見るのも良し触るのも良しといった 感じです。
ギプスセックスっていうのに興味が少しありますが、イミテーションギプ スじゃなく本物のギプスをした女性としてみたいです。
みなさんもそう思いません?

やはり本物は最高ですね。
私はギプスフェチの他にもうひとつフェチらしきものを持っていて、それはなんなの かというと骨折してギプスを巻いてる患部に刺激(主にたたくとか)をあたえて痛がる女性の姿を見るのがなんとも言えませんね。

私としては最高です。2回そういう事を彼女にしました。もちろん了解を得て。
 


私の告白
2001.7.30 キャス男
はじめまして。私とこのサイトの出会いは、もう3,4年目?くらいですかね。ここには
長年お世話になりっぱなしです。こうやって文章書くのってはずかしいんですけど今日は、
私のことついてちょっとお話したいと思います。
さて、私がこのサイトと出会ったのは、コンビニで雑誌を立ち読みしてた時でした。
‘今注目のサイト‘とかいうのに‘ギプス写真館‘ってのがあって、そのとき衝撃が走った
のをおぼえています。
私は、物心ついたときからギプスや包帯、眼帯に興味があって、そのことで「自分だけがなんでこんなに惹かれてるんだろう?
病気なのかな」と悩んだこともありました(今もある意味病気だけど・・・)。
そんなこんなで誰にも言えませんでした。今思うときっと「こいつおかしいんじゃないか」とか思われたくなかったからだと思います。
で、いそいでうちに帰ってここを開いてみました。その時初めて自分ひとりじゃないって事を知りました。それからほぼ毎日覗かせてもらっております。
モデルのイミテーションもいいのですが、やはり実際に怪我した方を拝見するのが一番好きです!
私は足ギプスよりも腕ギプスが好きで、やっぱ石膏ギプスのほうがいいですね。
だから、とくにAC100Vさんの投稿写真が大好きで、いつも拝見させてもらっていました。
今、メンバーじゃないんで見れなくて残念です。
腕ギプスとか指に包帯とかとくにいいですね、あの痛々しさがたまりません。町を歩いてる時にギプスや包帯をしてる女の人が歩いてるとじろじろ見てしまいます。みなさんみたいに写真とる勇気ないんでいつも眼に焼き付けてます。そしてそれをネタに一人で「ああして怪我したんだな」とか「きっとこんな怪我だろう」とか、あぶない妄想にふけっています。
これをもとに今度は小説にも挑戦したいと思ってます。BBSとかにもちょくちょく顔出したいんで、同朋のみなさま、
どうかかわいがってやって下さい。   ,
  
はじめまして、norikkuさんいままで勇気がなくてカキコ出来なかった自分を不甲斐なく感じております。これを機にみなさんのお仲間に入れていただければ光栄です。
上記の文を自叙伝って形でよろしくお願いします。私は上記のような男で。名をキャス男と
でも名乗っときます。
 

私とギプス
2001.7.28 ギップー
はじめまして、いつも楽しませていただいてます。その御礼に私のギプスに対する思いを投稿させていただきます。
僕が小学生のある日、学校から帰ると、母が足首に白い包帯をしていた。その時、なんだかドキドキするような不思議な気持ちがした。

それ以来包帯に興味を持ち始め、自分の手首や足首に巻いては、その快感に浸っていた。そんなある日、学校で、肘の上から手首までギプスをはめた女の子を目撃。真っ白な石膏ギプス、その先に見え隠れする青い布(ブルーオルテックス)が何とも美しく、三角巾で腕を吊った痛々しい姿が哀れでたまらなかった。その後もLACやSACの女の子にも遭遇。
その当時、面識もなかったが、名前だけは今も覚えている。その子達は、卒業文集に骨折した事を書いていたからだろう。

今でもアルバムを眺めると当時を思い出し・・・。それから現在に至るまで、純白のギプスに拘束された女性、松葉杖を突いて不自由に歩く女性等に何とも言えぬ色気を感じてしまう。また、ギプス姿の女性が出るTVドラマをチェックしたり、本屋で整形外科の書籍を立ち読みしたりしていた。

もちろん皆さんのように自爆行為もしたし、ちょっとした打撲程度でも整形外科に通ったりもしてましたが、幸か不幸か、今でも自分自身ギプスには縁が無い。自作イミテーションギプスを巻いたり、松葉杖を購入(ちょっと勇気がいった)して散歩したり、その時は、こんな事をする(ギプスに興味がある)のは自分一人だろうと思っていたが、このサイトを見つけ、こんなに仲間がいるとは感激です。

norikkuさんに感謝です。ありがとうございます。
母の包帯から始まり、LACの少女で目覚めた自分。石膏ギプスにブルーオルテックスの女性を最近は見かけないなー・・・

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